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川村 敏 院長の独自取材記事

川村内科クリニック

(品川区/大井競馬場前駅)

最終更新日:2021/10/14

川村敏院長 川村内科クリニック main

「大井消防署八潮出張所前」バス停下車、徒歩2〜3分。30年前に開発された「八潮パークタウン」内に建つ「川村内科クリニック」。団地が造成された当初から、地域住民のかかりつけ医として幅広い診療に対応してきた。クリニックの玄関には格納式のスロープが配置されており、車いすの患者も安心して通うことができる。また、院内は待合室もトイレも広く、常に使いやすさを追求して随時改装しているという。新たに待合室の壁にかけられたディスプレイではクリニックからのお知らせや健康アドバイスなどを放映している。院長の川村敏(さとし)先生は、アメリカ留学中に発表した論文が国際的に大きな話題を呼ぶなど研究分野で実績を持ちながら、臨床を志してこの地に開業した。患者の目線に立つことが大事と語る院長先生に、診療にかける思いとこれからの展望について聞いた。

(取材日2015年8月28日)

幅広い診療科目で地域の患者の健康を守るかかりつけ医

こちらの土地で開業されたのはなぜですか?

川村敏院長 川村内科クリニック1

開業は1984年ですから30年前ですね。この「八潮パークタウン」ができたのとほぼ同時に開業しました。当時品川区内で眼科医院を営んでいた叔母から紹介を受けたのがきっかけです。下見に来た時にはまだ造成中で、トラックが行き交い砂塵がもうもうと舞っているような状態。その様子を眺めながら、果たして患者さんが来てくれるのか不安に思ったのを覚えています。私自身、叔母から紹介されるまでは開業するつもりはなかったのですが、この団地が完成すればたくさんの人が集まり、新しいコミュニティが出来上がる。その一角で地域医療を担えるという夢が膨らんで開業を決意しました。とはいえ開業のノウハウも資金も全く用意がなかったのです。折よく、埼玉県の鳩ヶ谷病院の院長職に迎えられて1年間勤めた後に、開業に至ったのです。

来院されるのは団地の患者さんがメインなのでしょうか。

そうですね。ただ、この団地には当院も含めて全部で3ケ所に医療施設があって、当院はその中でも中心地から離れた場所にあります。普通にやっていたのではさほど患者さんが集まらないという思いがありましたので、開業当初から高齢者世帯を中心とした在宅訪問診療に力を入れてきました。開業以来の往診数は延べ件数でいうと1万5000件を超えています。中には団地から引っ越した方に引っ越し先にも来てほしいという要望をいただくこともあります。当然遠くなるのですが「じゃあ帰り道に寄りますよ」といった感じで団地外までお伺いすることもあります。毎日4件ほどの在宅患者さんを訪問診療しています。

どんな症状で来られる方が多いのでしょうか。

川村敏院長 川村内科クリニック2

患者さんは総合診療科のような感じで当院を受診してきます。当団地には内科系以外に眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科、外科、歯科のクリニックがありますから、必要であれば直ぐに紹介してあげます。ここは陸の孤島で診療科目が限られていますから、当院の診療としては「できるだけ広範囲に受け入れる」姿勢でいます。診療内容は一般内科、小児科診療、循環器疾患、睡眠時無呼吸症候群、骨密度測定を含む骨粗鬆症診療、認知症診療、甲状腺疾患、インスリン初期導入を含む糖尿病診療、喘息・アレルギー鼻炎を含むアレルギー疾患、頸動脈超音波検査、下肢血行障害に対する検査、禁煙外来、BCG接種を含む予防接種全般、品川区の特定健診、在宅訪問診療等々です。腎臓の専門医であることから、慢性腎不全による腎性貧血に対してはエリスロポエチン治療も行います。心療内科の患者さんも来られますし、併診の約束で精神科領域の患者さんも診ています

研究者として積んだ実績を後ろ盾に、患者目線の診療を行う

アメリカ留学の経験がおありだとか。

川村敏院長 川村内科クリニック3

1967年に日本大学医学部第二内科(大島研三教授)に入局。腎臓?班(杉野信博講師)に入り腎生理学を主体に研究しました。1972年に米国テキサス大学内科に留学。あのケネディ大統領が暗殺されたダラスです。高名なセルディン主任教授やレクター教授の下で腎生理学の研究を続けることになったのです。毎日400倍顕微鏡下に行うミクロの世界の研究に没頭しました。1年半が過ぎた頃に予想を超える研究成果が出て1974年のニューヨークで開かれたClinical Investigation学会(23題限定)に腎部門として唯一題選ばれ発表となりました。その成果は同年行われたフィレンツェの国際腎臓学会や多くの学会誌に紹介されました。このCI学会の同じ場でセルディン教授の教え子ゴールドシュタイン博士がコレステロール代謝に関する研究成果を発表しましたが、これが元でゴールドシュタイン博士とブラウン博士は後年ノーベル医学・生理学賞を受賞しています。私の米国滞在は更に1975年まで延びることになり、途端に年俸も2倍になり、称号もResearch Fellowから Visiting Assistant Professor と異例な昇格となりました。全く臨床から離れ、言葉や研究で泣く思いをした苦労の連続の4年間でしたが、私の中では最も輝かしい時代でもあったかなと懐古するのです。

診療の際にはどんなことに注意していますか?

患者さんは様々な症状を訴えてこられます。先ずは診察。自分の専門外であったり当院の検査機器のスペックを越えているものであれば、なるべく迅速にしかるべき医療機関をご紹介できるようにしています。以前は紹介状・情報提供書をすべて手書きにしていましたが、今は電子カルテで比較的楽に出力できるようになり、かなり効率化しました。あとは、患者さんとのコニュニケーション。できるだけ患者さんと同じ目線で、なんでも言ってもらえるようなリラックスした雰囲気を作ること。そのために診察とは殆ど関係ないようなお話しもしますよ。中には話が止まらなくなってしまう患者さんもいて困惑することもあるのですが(笑)。そんなときにはスタッフが阿吽の呼吸でうまくフォローしてくれます。

その他、特徴的なのはどんなところでしょう?

川村敏院長 川村内科クリニック4

当院のスタッフは看護師と事務職を合わせて5名。そのうち勤続30年のベテランが3名います。だからこそできる厚みのある診療は当院の大きな強味だと思っています。例えば糖尿病のインシュリン注射。当院ではインシュリン初期導入から対応していますが、実践的な指導は看護師が時間をかけて行います。また、認知症患者さんに対する簡易診断スケールの作成、問診、家族からの聞き取り等においても看護師の役割が大きいのです。ドクターが受け持つと他の患者さんの診療に支障を来すことになりますから、指導できるスタッフがいるというのはとても助かりますね。山本看護師は当院での電子カルテ導入の立役者であり、医療機器の操作を習熟しており、診療・患者さんのこと全般にわたって把握しており、事務スタッフとも息の合った仕事をしています。最近スタッフに加わった川島看護師は特に介護一般の知識に詳しく、長い訪問看護ステーション勤務での経験を生かし、外来の看護業務の傍ら在宅患者さんのお世話もしてもらっています。訪問患者さんと密に連絡を取り、訪問診療の計画をたて往診に同行します。外来の診察状況の特徴として、診察机が1と2があり、混雑時には交互に使います。中待合、超音波装置、上下動できる電動診察ベッド、採血テーブル、点滴準備台、看護師作業机、レントゲン操作盤とデジタル画像処理装置等が一つの平面の中に動線を考えて機能的に配置されています。電子カルテは診察机1、診察机2、看護師机、事務室と連結され、各所で操作されます。

どんなことでもまずはかかりつけ医に相談してみてほしい

医師をめざしたきっかけを教えてください。

川村敏院長 川村内科クリニック5

漠然とですが将来は建築関係の設計士を考えて、大学は理工系を目指しました。上京して眼科医である叔母の家に居候。叔母の勧めもあり急遽医学部受験に変更して合格。うまく誘導されたのかも知れません、高齢ですが今も元気な叔母に感謝しています。だから、もともと医師を目指す志が高かった、というわけではないんですよ(笑)。

印象に残っている患者さんはいますか?

大勢いますが、ひとりだけ挙げるとしたら、18歳女性の患者さんです。彼女は脳腫瘍を患っていて、余命1ケ月と宣告されたため最期は家で迎えたいと、病院から退院してきていたのです。延命治療としては、毎日脳圧を下げる薬を点滴静注すること。でもステロイドの副作用で静脈が全部厚い皮下脂肪の中に埋まってしまっている。左手の指間にわずかに浮き出た一本の血管だけが頼り。失敗してしまうと数時間は打てなくなってしまうため出直し、細心の注意が必要でした。最初その女性は身体を動かすこともままならなかったのです。でも、点滴を続けていると日に日に元気になって、2ケ月後には4階の自宅からキャタピラ式昇降機を使って階段を昇り降りできるようになり、更に数日すると自分の脚で歩けるようになり階段を降りたいと言い出したのです。彼女は信仰をもっていたのですが、山奥の施設まで行って洗礼を受けられるほどに回復したのです。しかし、3年経ったときに再び病状が悪化。ある日、自宅に集まった家族や知人の前で息を引き取ったのです。21歳でした。1ケ月が3年間、一点の細い静脈が彼女をここまで延命させたのです。余りにも短い生涯でしたが、彼女が未来を見つめ強く生きた「生」と淡々と迎えた「死」の両面を思い出すといつも感動します。彼女の闘病生活の最期に寄り添うことができた、医師としての使命を果せた、深い満足感で一杯でした。

休みのときにはどんなことをして過ごされていますか。

ひとつは家庭菜園です。10坪ほどの畑に、ミョーガ、フキ、トマト、キウリ、ナス、大根、ジャガイモ、オクラ、ゴーヤ等を栽培しています。クリニックの裏手にもゴーヤの葉で緑のカーテンを作り、白ゴーヤが豊作でした。患者さんとの野菜談義も楽しいものです。次には日曜大工です。クリニックの中を見渡してもらうと分かると思いますが、各所に実用品として、ワゴン車、テーブル、ラック、仕掛工作等の手作りの工作品が沢山あります。ペイントのカラー選びにも凝ります。煩雑になりがちな室内を常にスッキリ見せるのに必要なことなのです。短い時間に手早く作るのがコツです。一方、自宅での日曜大工は更に激しくなり、かなり大胆にもなります。しかし、妻の前で大工道具を拡げるのはタブーです。埃が舞う、家を壊すな、と烈火の如く怒るからです(笑)。以前、家の中の階段を昇降する時に薄暗さが気になっていまして、ある時、階段上の壁をくり抜いて部屋越しに外の光を取り入れることを思いついたのです。用意万端、妻が旅行で家を空けたタイミングで一気に1M四方の自製の明り取り枠を取付け、ガラスを嵌め込んで完成したのです。妻が文句をつける余地がないほどの出来で、今は当たり前の存在です。他に、書籍関係です。娘や孫たちに残すために、私の父親や母親の生涯を綴ったアルバム写真集(製本)をつくりました。戦前戦後の動乱期を医師として、戦没者妻として生き抜いた叔母のアルバム写真集(製本)もつくり喜ばれています。ある契機で国際法の権威リーブマン博士の原著を翻訳した「夢の海外移住計画(永住権を最短で取得するための指南書)」を毎日新聞より発刊したこともあります。

今後の展望と読者へのメッセージをお願いします。

川村敏院長 川村内科クリニック6

私自身、前立腺がんと胆石症の手術を受けたことがあり、患者としての立場になったこともあります。術後4日目には診察を初めていました。これからも患者さんの目線に立って、より患者さんに寄り添う診察を続けていきたいですね。無理に手を広げすぎると手薄になってしまうので、今やっていることの内容をより充実させて、更に後継者をも見つけて今の体制を続けていきたいと思っています。メッセージとしては、お困りのことがあれば、標榜科目以外と思えても「先ずは相談」、ということでしょうか。かかりつけ医というのはそういうお悩みの相談窓口でもあると思うんです。能力内のことはやるし、無理であれば直ぐに適切な医療機関を紹介しますので気軽に相談してほしいと思います。

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