小柳 亮 院長の独自取材記事
KOYANAGI真柄CLINIC
(新潟市南区/関屋駅)
最終更新日:2024/07/31
スタイリッシュな外観が目を引く「KOYANAGI真柄CLINIC」は、小柳亮院長と妻の小柳久美子副院長が2012年に開業した。「24時間365日可能な限り患者さんと向き合います」。そう語る小柳院長は、厚生労働省にて医系技官として勤めた後、自らの手で患者を診療したいと臨床医の道へ進んだ少し珍しい経歴の持ち主だ。「新潟から世界一のクリニックを」そんな熱い思いを抱く小柳院長に、これまでの経験や今後の展望についてじっくりと話を聞いた。
(取材日2024年7月2日)
毎年数多くの患者に寄り添う
開院されて今年で12年目ですね。これまでの歩みを振り返ってみて感じられていることをお聞かせください。
本当にあっという間でしたね。診療の枠にとらわれずに、患者さんが必要としていることに対してその時のベストを尽くそうと奔走する日々でした。おかげさまで数多くの患者さんにご来院いただき、地域の皆さんに頼っていただけるクリニックへと成長することができたのではないかなと感じています。もともと、厚生労働省にて医療行政を行う医系技官として働いていたのですが、最近その古巣にて、医療を包括的に行う「かかりつけ医機能」について講演する機会がありました。以前より、今後日本ではかかりつけ医機能が必要になるだろうと感じ、当クリニックでは積極的に取り入れていたので、そのオファーはうれしかったですね。医療機関としての使命である外来・往診・予防といった通常の診療以外に、学校医としても活動するなど、地域社会を医療の面からサポートしています。歩んできた道は間違っていなかったんだなと確信していますね。
患者さんとのコミュニケーションも大切にされていると伺いました。
診療中だけではなくプライベートにおいても意識しています。というより、仕事もプライベートも分けていない感じかな。すべて地域の皆さんの健康につながっていると考えていて、それが私の生きがいなんですよね。例えば、スーパーで買い物している時に「あの棚にこんにゃく米があったな」という発見があったら、それを肥満気味の方や糖質を気にされている方にお伝えすることができます。街中で最近来院していない患者さんに会った時は「最近来てないけど大丈夫?」とご自身の健康状態を振り返っていただくきっかけをつくることができます。これも地域の皆さんの健康を支える上で大切なことだと感じています。なにより、患者さんとコミュニケーションを取ることが楽しくて仕方ないんです。地域の集まりで皆さんとおいしいご飯を食べたり、会話を楽しんだり、私自身も皆さんに支えられているなと日々感じています。
小柳院長は関東のご出身ですが、そもそもなぜ新潟県で開院されたのですか?
新潟県にとても深い縁があったからです。私の父が上越市出身で、実は私自身の本籍も上越市なんですよ。また、父方の祖父が歩兵連隊として戦争に出兵し亡くなった過去があるのですが、同じくこの土地を愛していたので弔いの意味も込めています。そして何より、妻である副院長の久美子先生が新潟県出身だったからです。東京にいた時は野心を持って働いていましたが、妻自身はいつかは新潟に帰りたいと言っていました。ある時、私一人の野心にそれほどの価値はないなと感じたんです。何より至らない私と結婚し、大きな愛で包んでくれている、そんな妻を育んでくれたこの地に恩返しできないまま一生を終えるだなんて考えられなかった。今の私があるのは妻が一緒にいてくれたからだと胸を張って言えますね。……まあ、本人に面と向かっては言えないんですけども(笑)。
自分の手で助けたい一心で、医系技官から臨床医へ
医師をめざしたきっかけをお聞かせください。
医師である父の背中を見て……と言いたいところですが、医師をめざした最初のきっかけは高校時代の出来事でした。高校に入学した頃、勉強が身に入らない時期があったんですよ。でも、文化祭の実行委員をやり遂げることができた時に、先生方が金メダルを私に作ってくれたんです。「やればできる、だから勉強も頑張れ」って。その時、ハッとさせられて、本気で勉強を頑張ったら成績が学年で2位になったんです。この経験から「本気を出せばなんでもできるのだな」と気づくことができました。そして、ここでやっと出てくるのが父の背中です。生きがいを持ちながら仕事を全うしている姿をずっと見ていたので、やっぱり私自身もそんな医師になりたいなと思ったんです。その後、川崎医科大学の創設者である川崎祐宣先生にお会いする機会があったのですが、その時に熱い経営者の魂を感じて、心底この大学に入学したいと思い同大学に進学しました。
大学卒業後は厚生労働省にて医系技官として働かれていますが、どのようなことをされていたのですか?
厚生労働省は制度をつくる機関です。医療と切っても切り離せないのはやはり行政であり、根本的な医療制度を整えることで多くの人の健康を支えることができると思い、医系技官をめざしました。入省後は、災害時に適切な医療をどのように行うのか、ロードマップを作成する仕事をしていました。例えば原子力発電所がメルトダウンした際、どのように医師がアプローチするのかや、火山が噴火した際の対応方法などです。噴火時にはどのように患者さんを運ぶのか、飛行機とヘリコプターのどちらを使うのか、どの医療機関へ運ぶのかなど、一つ一つ細かく決めていきます。厚生労働省での勤務というとデスクワークを想像されるかもしれませんが、実際に現場へ足を運ぶことが多かったんです。大変ではありましたが、とてもやりがいのある仕事でしたね。
その後、東京女子医科大学病院に勤務された理由はなんだったのでしょうか。
医系技官として大きなやりがいを感じながら業務を行っていたのですが、ある時こんな言葉を言われたんです。「注射も打てない医者になるのか」。この言葉が心の中でずっと引っかかり、それなら注射を打てる医師になろう、直接自分の手で患者を助けることができる医師になろう。そんな思いで循環器内科に力を入れている東京女子医科大学病院での勤務を決意しました。人間の生命をつかさどる心臓を専門的に診療できること、そして学生時代は苦手意識のあった循環器内科を深く学び医師として成長できるという点に魅力を感じ、循環器内科の道へ進みました。
新潟から世界一のクリニックをめざして
つい最近、クリニックで働くスタッフのために、院内を増築したそうですね。
新型コロナウイルス感染症の流行時に休憩室を感染者診療用の個室にしてしまったので、業務スペースと休憩室をしっかりと分けて動線を分離できるように増築しました。業務効率の向上はもちろんのこと、eラーニングなど自己啓発を行う場としても活用できるように大きくスペースを取りました。数多くある医療機関の中で当クリニックを選んでくれたからには、自身が望む未来をかなえて幸せになってほしいですし、少しでもそのお手伝いをしたいと日々感じています。毎日出勤するこの場所が自身を高めるきっかけになればいいなという思いも込めて、増築に至りました。
ご自身のキャリアで、大きな影響を受けた方はいらっしゃいますか?
明治時代に北海道の帯広の地を開拓したある人物に大きな影響を受けているんです。もともと何もない土地だった帯広に将来性を感じて、会社を設立し、苦労を重ねながら開拓に奔走した人です。彼の功績により、帯広は酪農や加工肉などの製造業が発展し、今も高い食料自給率を誇ります。しかし、彼自身は無一文で脳卒中で亡くなりました。私はこの人の生き様に感銘を受けて、こんな人生を歩みたいと思ったのです。お金は墓場まで持って行けませんし興味もありません。それよりも未来へつながる地域医療の発展に、まだまだ医師が足りていない新潟県の医療の発展に、尽力していきたいと考えています。
最後に、これからの展望をお聞かせください。
「新潟でも世界一のクリニックを作れるんだな」。そう思われるほど、日本のかかりつけ医機能を先取りしたクリニックをめざしていきたいです。都市部でしかより良い医療は受けることができないと、どこか地方医療に引け目を感じている患者さんや医師をなくすことができるくらい、圧倒的な医療体制を整えていきたいと考えています。こう思わせてくれるのは、おおらかな心をお持ちで、医師として本気で医療に向き合いたいと思わせてくれる新潟の皆さんの県民性です。この地の未来を、私の生涯をかけて切り開いていきますよ。