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宗定 伸 院長の独自取材記事

あすなろ整形外科クリニック

(横浜市都筑区/センター南駅)

最終更新日:2022/06/07

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック main

横浜市営地下鉄センター南駅から徒歩1分のビル4階にある「あすなろ整形外科」。同じビル内には複数のクリニックがあり、患者にとっては利便性の高い立地といえる。院内に足を踏み入れると、大きな窓に囲まれた広々とした待合室が広がるが、これは宗定伸(むねさだ・しん)院長のこだわりでもある。整形外科・リウマチ科・リハビリテーション科を掲げる同院には、長期的に通う患者が多いことから、「通院の負担を少しでも減らし、できるだけリラックスして過ごしてほしい」という思いが込められている。取材ではそんな患者思いの院長に、幼い頃のエピソードから勤務医時代の経験、そして現在の診療に対する考え方まで、たっぷりと語ってもらった。

(取材日2006年12月20日/更新日2022年6月3日)

空き地遊びに音楽、無線……遊び尽くした子ども時代

まずは、先生の子ども時代のお話を聞かせてください。

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック1

小学校低学年まで今の青山学院大学の正門の斜め向いに住んでいて、その後高学年の時に、原宿に引っ越しました。現在のイメージだとびっくりされるかもしれませんが、昔は何てことのない普通の街だったんです。青山の辺りには都電の車庫があって、昼間、電車は出払っているので、子どもにとっては遊び放題の空き地だったんですよ。そこで走り回ったり、廃屋になった事務所みたいなところを基地にしたり、その屋根裏に入って梁を踏み外して落っこちたり(笑)。当時は都心でも自然が残っていたので、夏休みの昆虫採集で採れなかったのはオニヤンマくらいだったと記憶しています。思い返すと、「昭和30年代の子ども」を絵に描いたような感じで、一通りの遊びはしたんじゃないかなと思いますね。

思春期の頃はどうでしたか?

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック2

音楽好きな友達がいたので、彼に教わってまずは古典派音楽から入り、次にはまったのがアメリカの兄妹ポップデュオや、世界的に有名な英国ロックバンドでした。中学に入ってからは、レコード屋さんと仲良くなって安く買うことができたので、ジャンルに関わらず音楽を聞き倒しましたね。その後は、ロック界のレジェンドとして知られるバンドのある曲に夢中になりました。20分以上ある大作で、オーケストラと共演していたので、「クラシックを聞く耳で聴ける」音楽だったんです。ちなみに、曲の一番最後の所でバイクが走り抜けるんですよ。そこで初めてステレオの重厚感を実感しましたね。それからイギリスのあるギタリストのライブに行ったこともあります。そこでノックダウンされてしまって。「この曲、1人でやってたのか!」と、ひたすら感動しました。語り出したらきりがないですが(笑)、彼らのように生きたいと思っていましたね。

先生の楽しそうな表情を見ると、こちらも笑顔になります。音楽以外にも夢中になったものはありますか?

音楽以外では、アマチュア無線クラブに入っていました。実際に無線をやるのではなく、今でいうICですね。基盤を作ってそこに部品を埋め込んでいく。友達の中にすごく詳しい子がいて、彼が設計をし僕らは肉体労働を担当して、コンピューターを作ったこともあるんですよ。家庭用のコンピューターが発売されるよりも5年くらい前だったと思います。ただ、高さが1.5メートルくらいの箱が電源で、壁一面にいろいろな基盤を作ってはめ込んでいって、やっとできたのが「1+1=2」という計算でした(笑)。でもそうやって夢中で何かを作っているときが、何よりも楽しい時間でしたね。

「医者の腕次第」だからこそ、やりがいにつながる

子どもの頃から医師になろうと思っていたのですか?

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック3

思っていなかったですね。父が内科の開業医だったので親からすれば「医者になって当然」という感じだったと思いますが、当時は工業デザインの仕事がしたくて、高3になるまで抵抗していました。それでも、結局医者をめざしたのは、反抗期が過ぎて、親の気持ちを少しは想像できるようになったからかもしれません。そうは言っても、最終的にはやっぱり反抗して(笑)、内科ではなくて整形外科を専門に選んだんですけどね。「プラモデルを作るのが好きな子が大人になって医師になると、整形外科医になる」というのが僕の持論。折れた骨ををきちんと組み合わせてピシッとはめて、エックス線写真で骨折線が見えなければ、「やったー!」となるわけです。患者さんが前のような生活に戻れるかは、医者の腕次第。だからこそ、納得のいく治療ができたときの達成感は何ともいえないですね。

医師になってからどんな経験を積んだのか、聞かせてください。

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック4

東海大学を卒業後、同大学病院で研修医として勤務したんですが、外傷の患者さんが多い病院だったので毎日救急車との戦いでした。でも、「けが」はアクシデントなので、どうしようもないこともあるわけです。それに対して「病気」というのは良くするのも悪くするのも医者だと僕は考えています。そのことを強く感じたのが、リウマチ性疾患の治療でした。大学時代の助教授が東京女子医科大学の膠原病リウマチ痛風センターの教授をしていた関係で、5年間同センターに勤務したことがあり、朝から晩までずっとリウマチの患者さんを診ていく中で、多くのことを学びましたね。

リウマチ治療に関して、どんなことを学んだのでしょうか?

教科書に書いてあるのは、「一般的な例はこれです」ということだけなんです。でも実際は一人ひとり症状が異なるので、それぞれに合わせた治療が必要で、一歩間違えると副作用にもつながりかねません。副作用一つで治療の流れが変わってしまうので、きちんと管理してコントロールすることの重要性を学びましたね。また大学病院ということもあり、患者さんが全国から来るんですが、見方を変えれば、家の近くでリウマチを見てくれるクリニックが少ないということ。それを肌で感じたからこそ、「ある程度の所までちゃんと見てくれる、近所にいる医者」になるのが、僕の目標の一つになりました。ずっと大学にいてその中で上をめざすというゴールは、自分の頭の中にはありませんでしたね。

自分なりの「医術」を提供する場で、患者と向き合う

勤務医時代の経験が今につながっているのですね。

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック5

本当にそうです。リウマチはまだ手術が必要とされる病気ですが、手術をするタイミングが重要なので、そこを見極められる先生でなければ難しいんですよ。そういう意味では、外科と内科が連携を図っているリウマチセンターで勉強できたことは大きかったですね。整形外科医は薬に関する知識が弱点になることもあるんですが、内科の先生がいれば薬に関して聞きたいことがあってもすぐに相談でき、学びも深められる。逆に、内科の先生からすれば手術となったときにすぐに整形外科医に相談できます。どちらかの知識・技術だけだと偏ってしまうと思うので、お互いに学び合ってバランスの良い医療を提供できるよう、当院でもリウマチセンターをはじめ他科との連携を図っていきたいですね。

先生が診療する上で大事にしていることはありますか?

宗定伸院長 あすなろ整形外科クリニック6

大学では、「学問・教育・診療」のすべてが要求されますが、僕はスーパーマンじゃないから完璧にこなすのは難しい。そこで、自分の中で3つのうちの何が中心になるかなと考えると、やっぱり医者なんだから目の前の患者さんを「診療」することじゃないかと。そのためには、医療の技術、つまり「医術」をしっかり持つことが大事だと考えています。「医術」というのは、一人ひとりの違いを考慮してその人に合った治療を提供することだと思うんですね。一方で「医学」という言葉もありますが、学問はいろいろな人を最大公約数でくくって初めて答えが出るものですよね。でも、患者さんはそれぞれ異なりますから、そうもいかない。つまり「医学」というのは、くくりにくい学問なんですよ。だから僕は「医学」よりも、自分なりの「医術」を提供できる場をつくりたくて開業しましたし、そのためにも、患者さんとしっかりと向き合うことを大事にしています。

では、最後に今後の展望を聞かせてください。

開業するということは、医学的な知識を増やすという意味ではどうしてもブレ−キになるんです。だから僕は、今でも大学に籍を残して、月に1回外来診療を続けながら置いていかれないようにしています。当院では手術には対応していませんが、それを補う手段として、「薬・装具・運動」という大きな武器を持っています。運動に関しては院内に広いリハビリテーション室もありますしね。この3つを最大限に活用して内科的な知識も活用しながら、少しでも患者さんの悩みを解決していきたいですね。

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