全国のドクター9,295人の想いを取材
クリニック・病院 158,642件の情報を掲載(2024年4月20日現在)

  1. TOP
  2. 神奈川県
  3. 川崎市川崎区
  4. 川崎駅
  5. 村上外科医院
  6. 村上 俊一 院長

村上 俊一 院長の独自取材記事

村上外科医院

(川崎市川崎区/川崎駅)

最終更新日:2021/10/12

村上俊一院長 村上外科医院 main

「最後に医師としての父の背中を見ることができて本当によかった」と語る「村上外科医院」の2代目院長・村上俊一先生。専門は整形外科だが、先代と同じくなんでも診ることのできる視野の広い町のかかりつけ医として、地域からの信頼は厚い。「父と同じように、常に患者さんの立場になって考えられる町医者でありたい」と、父の意志を受け継ぎ、丁寧で親身な診療を心がける。「患者さんは当院を信頼して来てくださる方ばかりなので、その信頼を裏切らないようにしなければと気持ちが引き締まります」と話す村上先生に、子どもの頃の思い出からアメリカでの留学経験までたっぷりと聞いた。

(取材日2015年4月8日)

未知のメカニズムを見つけ出す研究に没頭した学生時代

古くからこの地で開業しているそうですね。

村上俊一院長 村上外科医院1

1968年に父がこの医院を開業しました。父の専門は外科でしたが、この辺りの町医者として、外科だけでなく内科から皮膚科まで、悪いところがあれば何でも診るという方針で、依頼があれば夜中でも往診に応じていました。私は診療の邪魔になるといけないので、医院には立ち入らないようにしていましたが、夕方の診療が終わる頃に様子を見に行っては、待合室にいる患者さんたちにかわいがってもらった記憶があります。母が看護師をしていたので、盲腸の手術のときなどは手術室の中の様子を伺いながら、「父と母はすごいことをしているんだなぁ」と子ども心に思ったものです。この地域は長年住み続けている人が多いので、患者さんも当時のまま当院に足を運んでくださっていて、とてもありがたく感じています。

医師になろうと思ったのはお父さまの影響で?

父からは一度も「医者になれ」と言われたことはありませんでしたね。思春期の頃は父とは違う道に進みたいと反発したこともありましたが、最後にはやはり医療の道へ進むのが自分にとって一番自然だと思うようになりました。実際に医学部へ入ってみると、習うことすべてが「目からうろこ」の連続で、毎日が本当に面白かったですね。病気の仕組みが分子レベルでわかり、それを薬で制御できるなんてすごいことだなあと、もう夢中になりました。父とは違うことがしたくて整形外科へ進んだのですが、これがまたダイナミックな世界で圧倒されました。ドリルで削った骨のかけらが飛んで来たかと思えば、ミクロの分子レベルで研究をする。もっともっといろいろなことを知りたい、病気のメカニズムを自分で解き明かしたいと、医局で研修医として経験を積んだ後、大学院へ進みました。

アメリカへ留学もされたそうですね。

村上俊一院長 村上外科医院2

研究するなら先端の現場でとことんやってみたいと思ったんです。そこで分子生物学を学ぶために、アメリカの大学で15年間研究を続けました。アメリカは実力主義の国ですから、研究の現場はものすごい競争社会。私もやる以上は妥協はせずとことんチャレンジしたいと思い、必死で頑張って自分の研究室を持てるようになりました。もう無我夢中でしたね。私たちの周りには、人類が生きていくためのメカニズムにあふれています。一つの真理として何百万年も前から存在してきたはずなのに、まだ解明されていないことがたくさんある。まだ誰も知らない真理を見つけ出すことは本当に楽しかったですね。自分の研究の方向性を決めるには創造力も試されるので、そういったクリエイティブな側面も非常に面白く感じました。

父から継いだ信頼という土壌を大切に、さらなる飛躍を

留学中はどのような研究を?

村上俊一院長 村上外科医院3

「変形性関節症」や「軟骨無形成症」という、いわゆる小人症に関する研究です。なぜ背が伸びないのか、なぜ骨が伸びていかないのか、軟骨細胞の中でどのような異常が起きているのか、そのメカニズムを探るのです。言葉も文化も日本とはまったく異なる場所でひたすら頑張ることができたのは、自分がどこまでやれるのか試してみたいというチャレンジ精神があったから。当時は日本人で自分の研究室を持つところまでいく人はほとんどいなかったので、「簡単に諦めてなるものか」という気持ちもありましたね。

帰国されたのはいつ頃ですか?

帰国を決めたのは2012年のことです。1番の理由は、父から「一度閉院してしまうと、もう一度開院するのは大変だぞ」と言われたからです。これまで医院の後継については一度も言わなかった父でしたが、その言葉は「継いでほしい」という唯一の意思表示でした。今まで何一つ言わず、私のやりたいようにさせてくれた父の言葉だけに、ズシンと胸に響きましたね。私自身、まだまだ研究は楽しかったものの、実家のことはやはり気になっていたので、考えた末帰国を決めました。帰国してから父が亡くなるまでの1年10ヵ月は父と一緒に診察室に立ったのですが、あんなにうれしそうな父の顔ははじめて見ました。また、医師としての父の姿を見ることができたことも今となってはかけがえのないいい思い出です。

医院の特徴について教えてください。

村上俊一院長 村上外科医院4

1つは「どのような患者さんでも診る」ということです。父は子どもから大人まで、訪れる患者さんはどんな人でも断らず診ていました。もちろんすべて診るといっても、あくまでもかかりつけ医としてなので、必要があれば近くのクリニックや日本鋼管病院と連携し、治療にあたります。どの科を受診したらいいかわからないという相談にも乗っています。2つ目の特徴は「患者さんの立場になって考える」ということ。今後も父に倣って、患者さんがどんなことに困っているのかを見極めながら、気持ちに寄り添い解決するためのお手伝いをしていきたいと思っています。3つ目は、私の帰国後「整形外科」という分野が加わったことです。最近は腰痛や関節痛で来られる患者さんもだいぶ増えてきましたが、高齢の方はいろいろな不具合を抱えた方が多いので、内科も整形外科も同時に診てもらえるとたいへんご好評いただいております。

育ててくれた地域へ貢献。高齢化に向けた医療体制を

今後、力を入れていきたい分野はありますか?

村上俊一院長 村上外科医院5

私の専門分野でもある変形性関節症と、骨粗しょう症です。変形性関節症の治療では、患者さんの腰や膝など関節の痛みの緩和と、ADL(日常生活動作)の向上をめざします。今までかかった病院で思うような効果が得られなかったという方も、今はいろいろな薬があるので、症状に合わせて最適な治療を一緒に考えていければと思っています。一方、骨粗しょう症は骨折するまで自覚症状のない方がほとんど。しかし、高齢になって骨折すると、骨だけでなく筋肉や体力の回復に時間がかかってしまい、結局寝たきりになってしまう方が非常に多いので、そうならないように早い時期からの予防と治療に力を入れていきたいですね。川崎市では40歳から骨粗しょう症検診を行っているので、該当しそうな方には早めの検査をお勧めしたいと思っています。高齢の方々の骨折率が下がるよう、地域への啓発活動にも力を尽くしていきたいです。

ご自身で実践している健康法があれば教えてください。

実はアメリカにいる間にだいぶ体重が増えてしまいまして、このままではいけないとまずは体重を落とすことから始めました。心がけたのは、食事を和食中心にして野菜を多く取るくらいですが、それでも10kg減量できました。患者さんに「もう少し体重を落としましょう」と言う立場だけに、これからも食生活に気を付け、もう少し体重を落としていきたいです。休日は日帰りで行ける近場の山にハイキングへ出かけることもあります。山は若い頃から好きでよく登っていました。自然の中をおいしい空気を吸いながら歩き続けることが、いい気分転換にもなっています。

今後の展望と、読者へのメッセージをお願いします。

村上俊一院長 村上外科医院6

理学療法にも対応するため、2015年に新しいけん引装置と水圧マッサージ機を導入しました。足腰が痛い、しびれるという症状が出たとき、散歩がてら当院に来ていただければ、ちょっとした運動になるだけでなく、体を温め、マッサージやけん引もできるというわけです。痛みを緩和し、ADL(日常生活動作)の向上をめざす整形外科の分野は、これからの高齢化社会でより重要な役割を果たすでしょう。患者さんの中には、幼い頃から私をかわいがってくださった方や、かつての同級生の親御さんもいらっしゃいます。皆さん私にとって大切な方ばかり。父の開院以来、50年近くにわたって培ってきた「信頼」という土壌を大切にしながら、私を育ててくれた地域への恩返しのつもりで、なんでも診ることのできる町のかかりつけ医として、全力で地域の健康を守っていきたいと思っています。

Access