徳永 昭輝 院長の独自取材記事
とくなが女性クリニック
(新潟市中央区/新潟駅)
最終更新日:2023/06/30
「とくなが女性クリニック」は新潟駅南口から車で約10分、ビッグスワンには歩いて10分程の南長潟にあり、30台ほど停められる駐車場を持つ。院長は60余年新潟の産婦人科医療に関わっている徳永昭輝先生だ。新潟大学産婦人科講座の医局長、新潟市民病院産婦人科部長・地域医療部長を務めた後開業した。クリニックの理念は「患者さんとともにある、あたたかい医療」を掲げ、長くこの地で診療してきたからこそできる大規模病院とクリニックとの連携を大切にし2022年で開業20年を迎えた。現在は3人の女性医師の協力を得て産婦人科クリニックとして体制を整え患者の診療にあたっている。地域医療はもちろんのこと、後進の育成や産婦人科医療の抱えている問題、今後の展望について話を聞いた。
(取材日2023年4月19日)
患者に信頼されるぬくもりのある医療をめざして開業
まずは、医師をめざした理由を教えてください。
出身は長野県の諏訪、海抜920メートル、山梨県と県境の八ヶ岳の麓に生まれました。私がちょうど中学生の頃兄が結核になって、諏訪湖の近くにある健康保険岡谷塩嶺療養所で手術・療養生活をしていたことが「医者をめざそうかな」と思い始めたきっかけだったと思います。また、同級生のお父さんが村の診療所のお医者さんで医師という仕事に対する憧れもあったように思います。
その中でも、産婦人科医を選んだのはどうしてですか?
新潟大学医学部には1963年に入学しました。1969年頃の話ですが、早産した子どもや低出生体重児に酸素が投与され、未熟児網膜症や失明が社会問題化していたんです。それで卒業時に小児科医になろうかと思ったんですが、それよりも「早産や低出生体重児が生まれないようにするほうがこの問題を解決していけるのではないか」と思うようになり、内科・麻酔科初期研修の後、産婦人科医局に入局しました。特に力を入れたのがB型肝炎ウイルスの母児感染に対する臨床と研究でした。1981年に取得した博士論文も流産について研究したものです。大学の産科病棟に新生児室を設置し、小児科の教授回診もできるような体制にして、新生児集中治療室(NICU)の基礎を作り医局の事情などもあって新潟市民病院に産婦人科科長として赴任しました。
開業の理由は何だったのでしょうか?
1982年に新潟市民病院に赴任した時には、異常な新生児は小児科の先生たちが中心になって診ていましたが、産婦人科医も新生児の治療に関わることが必要だと思い周産期医療にも力を入れてきました。しかし、産婦人科病棟には重症な婦人科がん患者さんが入院しており、婦人科の患者さんの手術も多く、婦人科疾患の診断・治療に力を注ぐようになりました。今ではがん患者の在宅医療、ターミナルケアは当たり前に行われるようになっていますが、当時は一般的ではありませんでした。家族に見守られながら死を迎えることも必要と考えていましたので、市民病院を退職する前の2~3年はがん患者さんの往診をしていました。もう少し、患者さんと身近で寄り添った医療を求めて開業しました。
患者の診療から後進の育成まで。地域医療に貢献
「地域に根差した医療をしたい」という思いが強いとか?
私はそのつもりでずっとやってきています。それでもやっぱり患者さんに寄り添った医療は難しいですね。ちょっとした一言でつらい思いをさせてしまうようなことも少なくありません。長年産婦人科の医師として多くの人と関わってきましたが、何かをやり遂げたなんてことはありません。しかし、ありがたいことに、私が手術した患者さんが娘さんの術前説明の際、「先生! 実は私も先生に手術してもらったんですよ」と言われたり、「この子は先生の取り上げた子ですよ」なんて声をかけてくださる方もいらっしゃいます。また、妊婦さんのご主人が「実は私は先生に取り上げてもらいました」なんていうことも。そんなことがあると「他の科とは違い良い面もある」のかなと感じます。これからも私を必要としてくれる人には、それに応えられる医療を提供していきたいと思っています。
長い間、医学に携わってきても理想と現実にギャップがあるんですね。
医学の勉強を始めて、医師として60年がたちますが、なかなか難しいですよ。でも、私自身は新潟市民病院にいる時から、困っている患者さんがやって来たら「絶対に断らない」というこだわりを持って診療をやってきました。そこには自信を持っています。ただつらいのは、搬送されてきても救命できなかったようなケースですね。新潟市民病院時でしたが、例えば村上市内の病院から救急搬送された患者さんは、救命救急に入りますが私たちが診た初期対応の時点で、すでに大変な状態で救命できなかったことも。他にもお産の後の出血が多く搬送されてきたが救命できなかったケース、局所麻酔ショックで母体が意識障害となり死産児を取り上げることになったケースなど、救命できなかたケースなど多くのことを教えられました。
地域全体の医療の向上にも力を入れていると聞きました。
市民病院に赴任して、搬送症例などを通じて開業されている先生たちのレベルアップも必要だと感じて、新潟市民病院で、毎月第3月曜日に新潟市民病院産婦人科公開臨床検討会を開催してきました。今も 「水曜会」として公開臨床検討会が行われています。また、大学とは関係なく「周産期研究会」を立ち上げ、新潟県立新発田病院、新潟厚生連村上総合病院、水原町国保直営病院(現・あがの市民病院)、吉田の渡辺医院などの下越地区の産婦人科医療機関で新生児の勉強会を催したりもしてきました。今は、少子化の影響もあり各地域におけるお産を取り扱う有床診療所が激減してしまいましたが、地域の先生方がお互いに協力し、また勉強し合えるような医療環境になるように希望しています。
産婦人科医の課題と医院のこれから
開業してから20年以上がたちましたね。
2002年4月に開業してちょうど昨春は20年の節目の年でした。本当は誰かに譲ろうという思いもあったんですが。息子もたまたま同じ産婦人科医ですが、今は東北大学産婦人科の准教授になってクリニックを引き継ぐ気がないという状況です。開業してから15年ほどは多くの先生方の協力を得て1人で診療していましたが、今はありがたいことに3人の女性医師が土曜以外の午前中の診療を担当してくれています。20年というと長いようですが、開業してしばらくして新潟県産婦人医会や、東京での毎月の会議、学術集のとりまとめなど、診療以外の仕事もたくさんあったので、20年はあっという間といいますか、それほど長いとは感じませんでした。
県内の産婦人科医の現状はどうなっているのでしょうか?
ここ数年は産婦人科を新しく開業する産婦人科医はいませんが、2024年度以降新潟・長岡での新規開業が見込まれています。しかし、新潟県全域でお産を扱う医療機関は半数以下になっています。お産を取り扱う診療所の収益の大半は自由診療です。お産が減れば多くの医療機関が打撃を受けることになります。婦人科の手術も、「先生が手術をしてくれるんだったらやってほしい」という患者さんがいらっしゃるから、気持ちの部分で頑張れますが、そうでないとやっぱり婦人科の手術では開業医の経営は厳しいですよね。お産も数が少なくなったとはいえ出産される方がいればどんなに少なくなっても1件でもお産があれば、24時閒体制です。「全集中」しないといけないんです。
今後の展望について教えてください。
今後、医療が集約化される中で有床の産婦人科診療所はどう経営していくかを考えないといけません。単純にお産の数を増やすだけでなく、産後ケアなどにも医療機関として取り組むような方向転換も必要ではないでしょうか。あとは行政と連携することでしょうか。感染症の流行時に感じましたが、開業医がたくさんいるのに、そこで地域の感染者を診ることができなかったんです。私のクリニックでは県から診療ユニットの提供を受け、発熱患者さんを見る体制を整えましたが、産婦人科の患者さん以外は受診しませんでした。お産を取り扱う医療機関がなくなってから対策を立てるのではなく、県内全体の状況を把握し行政とも協力しながら新潟県の産科・周産期医療の在り方を考えなくてはならない状況にあると思います。お産難民を出さないように、住んでる地域で安心安全な産科医療が受けられるような体制を行政とも協力して作っていかなければならないと思っています。