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橘高 又八郎 院長、橘高 光 先生の独自取材記事

キッタカ歯科医院

(池田市/池田駅)

最終更新日:2019/08/28

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1944年に今の阪急宝塚本線池田駅前に開業して以来74年にわたって地域に住む人々の歯の健康を見守ってきた「キッタカ歯科医院」。橘高又八郎院長は父から同院を受け継ぎ、院長の妻の橘高光先生とともに診療にあたっている。大学院で補綴を専門的に研究し、深い知識を持つベテランの橘高院長と、女性ならではのこまやかな気遣いで診療に注力する光先生とのコンビネーションは抜群だ。そのため長年、地域の歯科医療の中心的存在として親しまれている。また、歯科技工士が常駐し、入れ歯の修理や義歯の調整が素早くできるのも同院の魅力のひとつ。不具合の程度によっては、その場で修理や調整をしてもらえることもある。橘高院長と光先生に、診療に対する心がけや患者への姿勢など、幅広く語ってもらった。
(取材日2018年2月1日)

74年間、地域の歯の健康を見守り続けてきた歯科医院

開業当初の貴院の思い出についてお聞かせください。

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【橘高院長】私が物心ついた頃は歯科医院は少なかったんですよ。だから、診療が始まっても待ち合いに人が入りきらなくて階段で待つ人もいるぐらい。これは大変だなと思っていたのを思い出します。当院はこの辺りで2番目に古い歯科医院だったんですよ。今では多くなりましたけれどもね。
【光先生】私たちが1972年に結婚した後、主人は大学院に残ったので私が手伝いに入ったんですね。その時は周辺にも歯科医院ができつつあったので、階段にずらりと行列できるということはありませんでした。それでも患者さんを待たせないように素早く治療する工夫が必要でしたね。

医師を志したきっかけは何ですか?

【光先生】私は一生続けられる仕事につきたかったんですね。医師というのは、ライセンスと身に付いた技術があって、患者さんに頼りにしていただければずっと続けられるでしょう。それで大阪歯科大学に進学することにしたんです。私の父も歯科医師だったんですね。その働く姿を見ていたのも大きいですね。
【橘高院長】私はね、他の道もあるかなと夢見ていました。休む間もなく働く父を見ていましたから。それを親戚に繰り返し説得されて、この道に入ることに。でも、今考えれば歯科医師を志したことで妻に出会えましたからね(笑)。本当によかったと思っています。

お二人は大学で出会われたんですね。

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【橘高院長】クラスは違ったんですよ。6年生になった時に実習で同じ教室になって見初めてから猛烈にアタックしたんです。恋のライバルがいたのか、どうかは知らないですけれどね。
【光先生】当時の私は20代前半で、友達の多くは高校卒業後に結婚していました。友達と会った時に家庭のことをいろいろ聞くでしょう。だから、結婚するなら優しい人がいいなと思っていたんです。私の父は封建的というか、昔ながらの厳しい父親像を地でいく人でした。そういう父とは違う側面を持った主人に惹かれたとでも言っておきましょうか(笑)。

地域医療に視点を移し、新たな技術を学ぶ

学生時代はどのように過ごしておられたのでしょう。

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【光先生】今では女性も多くなっていますが、当時の大阪歯科大学で女子学生は全体の1割もいないぐらい。クラブ活動も女性が参加できるものが少なくって、だから勉強に打ち込んでいました(笑)。主人はクラブに入って、あちこちの山に登ったり、トレッキングをしていたんですけどね。
【橘高院長】私はワンダーフォーゲル部でした。大学院を終えて大学病院で勤務していた時も、顧問としてクラブ活動に関わっていました。もちろん、勉強もきちんとしていましたよ、妻と同じく(笑)。大学院での専門は補綴。歯が欠けたり、なくなった場合にクラウンや入れ歯などの人工物で補う分野です。その中でもクラウンブリッジにかかる力を解析して、丈夫な補綴物を作ろうとしていたんです。

大学病院から地域医療に移られたきっかけは?

【橘高院長】大学病院で勤務していた頃に、ワンダーフォーゲル部が創立20周年を迎えたんですね。今までは国内で登山やトレッキングをしていたのですが、20年という節目なのでヒマラヤのアンナプルナをトレッキングしようということになったんですよ。もちろん、私は顧問なので率先して計画を進めていました。すると上司だった教授に「ヒマラヤに登るなら辞めてから行くように」と言われたんですよ。研究も面白かったし、迷う部分もあったんですけれどね。学生たちも初の海外遠征に心が沸き立っている状態。それならと退職を決めました。
【光先生】恐らく、学生を大学の職員が引率した遠征で事故があれば大事になるという懸念もあったんでしょうけどね。遠征から無事に帰ってからは義父と主人、私の3人で診療を行うようになりました。

光先生はどのように歯科医師としての研鑽を積まれたのですか?

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【光先生】大学を卒業してしばらくして結婚すると、義父の手伝いをするようになりました。義父はベテランでしたから、大学で教えるオーソドックスな治療法しか知らなかった私にとっては勉強の連続でした。義父は主人と同様優しく穏やかな人で、優しく教えてくれました。それと平行して週一回ぐらいの頻度で、大阪市内の矯正専門歯科医院での実践の中で矯正を学びました。私たちが若い頃は池田市の歯科医院は少なかったんですよ。だから、勉強会をつくって新しい技術を学んだりといろいろな活動を展開していましたね。

学校歯科医として地域の人々の健康に取り組みたい

学校歯科医としても積極的に子どもたちの診療に取り組んでおられるとか。

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【光先生】池田市は、小学6年生で虫歯が1本あるかないかというぐらいデンタルIQが高い街なんですね。子どもたちの健康に配慮する親御さんが多いんですよ。それと歯磨きや虫歯予防、食の教育が広がることも大事なので、主人をはじめとした学校歯科医の活動の成果だとも言えます。
【橘高院長】すべては私たちのお陰、というのは冗談ですけどね(笑)。失敗したなと思うこともあります。学校歯科医を務めていると、お母さん方から「先生のところでは小児歯科をやっていないと思っていた」と言われたんですよ。なぜそう思ったのか不思議に思って尋ねてみると「看板に小児歯科って書いていないから」と言われて、ああなるほどと得心。とはいえ、今から看板を架け替えようとは思わないですけどね。

歯科技工士の方が常駐しておられるようですね。

【橘高院長】今の歯科医院はほとんどが院外技工ですので、珍しいですよね。当院でももちろん、外部の歯科技工士の方に依頼して義歯や入れ歯を作ることがほとんど。ではなぜ歯科技工士が常駐しているかというと、修理や調整が素早くできるからなんですよ。
【光先生】昔から診療しているのでお年寄りの患者さんも多いんですね。入れ歯の具合が悪くなって来院された場合、院内に技工士がいるとその日のうちに修理や調整ができることも多いんですよ。お年寄りに何度も来院してもらうのは負担ですからね。そのせいか、遠くからお年寄りを連れて家族の方が来院されることもあります。

患者さんに対して特に気を使っている点はありますか?

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【光先生】じっくり時間をかけてカウンセリングをしていく、患者さんの心に寄り添った治療ですね。専門用語を使わず、言い換えたり、例えを使って一般的にわかりやすい言葉に変えて説明していこうと心がけています。
【橘高院長】私が常々担当している患者さんでも妻からのカウンセリングを求める方も多いんですよ。妻の説明の方がわかりやすいのかな?
【光先生】主人もゆっくりと丁寧に説明しているんですけどね(笑)。私は患者さんの表情を見ながら、理解してもらっていないなと感じれば簡単な言葉に直したり、もっと詳しく知りたそうなら突っ込んだ話をしています。女性のほうが表情を読み取るのが得意ですからね(笑)。

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