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プロフィギュアスケーター 村上佳菜子さんに聞く「健康を楽しむこつ」

(公開日2021年7月21日)

「佳菜⼦スマイル」で⼈気を博し、フィギュアスケーターとして活躍してきた村上佳菜⼦さん。2010年、15歳の時に初出場した世界ジュニア選手権で初優勝し、同じ愛知県出身の浅田真央さんに続く逸材として注目を集めました。
2014年にはソチオリンピックに出場するほどの技術力の高さもさることながら、年を追うごとに表現力を深め、情感豊かなプログラムを得意とするように。絶不調から復活を遂げた2013年全日本選手権の「ヴァイオリン・ミューズ」や、競技会最後の演技となった2016年同大会の「トスカ」など、観客の記憶に残る数々の名演技を残しています。
引退後はプロフィギュアスケーター、解説者、司会、⼥優……とパワフルに活動の幅を広げ、毎⽇を楽しむ村上さんに、これまでとこれからを語ってもらいました。

「病院の記憶といえば母」というほど
薬剤師の母が支えてくれました

伊藤みどりさん、浅田真央さんら、数多くの名選手を輩出してきた「フィギュアスケート王国・愛知」。世界選手権やオリンピックといった大舞台を経て、今はアイスショーや、テレビ番組などで活躍する村上さんは、そんな愛知が誇るフィギュアスケーターの一人だ。姉の後を追って3歳でスケートを始め、22歳で競技から退くまで、トレードマークの「佳菜子スマイル」の影で、多くの葛藤を乗り越えてきた。今に至るまでは、「自分の心や体と向き合い、気遣うことを、楽しめるようになった」道程でもあったという。

「小学生の頃は、姉に『勝ちたい』一心。6歳離れているので、何をやってもかなわなくて、唯一勝てたのがスケートだったんです。中学でジュニアの国際大会に出るようになると、『勝ちたい』から『楽しい』に気持ちが変わって。それまで私はここぞというときにいつも失敗していたんですが、この頃ようやく結果が出るようになり、自信を持って試合に臨めるようになったんです。試合が楽しくて、ずっと海外にいたい、日本に帰りたくない! と思うほどでした」

バレエ、体操、ダンスを糧に世界大会で金メダルを獲得

勢いに乗り、中学3年の時には、初出場の世界ジュニア選手権で、日本女子シングル6人目となる金メダルに輝く。きびきびと、かつしなやかに舞う村上さんの演技に誰もが魅了されたが、その強い体を培ったのは、幼稚園の頃から引退直前まで続けたクラシックバレエと、選手コースに受かるほどの才能を見せた器械体操、さまざまなジャンルのダンスだ。

「学校から帰ったらスケートリンクが閉まる18時までスケートを練習し、その後、近所のダンススタジオに移って、次はこれ、次はこれ、と、夜中の0時までレッスンを受け続けて。止まっているのは寝ている時だけというくらい、常に動き回っていましたね」と楽しげに振り返る。

健康面で何より心強かったのは、薬剤師で、アンチ・ドーピングに関する専門知識を有するスポーツファーマシストの資格も持つ、母の存在だ。ドーピングに差し障りのないサプリメントの摂取など、さまざまな助言をくれたほか、不調のときには、症状に合った病院選びはもちろん、診察に同行して、医師と薬の相談までしてくれたという。

「実は祖父と叔父も薬剤師で、そのつながりでいろんな病院を知っていたこともあり、症状に合う病院にすぐ行くことができて。母の存在は、常にそばにいてくれるパーソナルドクターのようで、とても心強かったですね。名古屋のかかりつけの先生も、母が診察に同行できなかった際には『薬のことは後でお母さんと話をしておくね』などと言ってくださって。診療時間外に診てもらうこともありましたし、臨機応変に対応してくださった医師の皆さんや母に、感謝しています」

バレエ、体操、ダンスを糧に世界大会で金メダルを獲得

夢の五輪を前に訪れた不調、己と向き合った過酷な1年

「高校に進んでシニアの大会に出るようになってからは、試合の怖さや、プレッシャーも知るようになって。スケートに対する思いも、『勝ちたい、楽しい』から、『人の心に残る演技ができるようになりたい』へと、だんだんと変わっていきました」

前述の、世界ジュニア選手権で王者となった華々しい瞬間に、実は足の甲に疲労骨折を抱えていたことが、後日判明。以降、村上さんは、たびたび疲労骨折に苦しめられるようになる。高校3年間で約10㎝も身長が伸び、女性特有の成長によって、体重の増加や、ホルモンバランスの乱れによる落ち込みやすさにも悩まされるように。加えて持病のアトピー性皮膚炎も悪化。そうした不調がまとめてやってきたのが、大学1年、夢のオリンピック出場が懸かった大切なシーズンだった。

「寝ても疲れが抜けなくて踏ん張れなかったり、少しできないだけで不安になってしまったり。それに前年の世界選手権で4位が取れたことで、燃え尽き症候群のようになってしまい、大学生になって高校の時のような、クラスに行ってみんなとおしゃべりする『ご褒美の時間』もなくなってしまった。いろんなことが重なり、練習はしているのに身にならない。焦りだけが募っていきました」

成績は落ち、五輪代表が決まる全日本選手権まで約半月となった愛知県競技会も、まさかの3位。だが失意の夜、一晩でショートプログラムをつくり直すという大胆な挑戦に出たことで、村上さんは覚醒する。

「2シーズン前の曲に戻したのですが、一から振り付けし直したので、一度ゼロに戻った感覚。そこからの2週間は、練習の仕方も気持ちの持ち方も、がらっと切り替わって、人生の中でも本当に濃い時間でした」

そのプログラムは、コンテンポラリーダンサーの平山素子さんが振り付けに参加し、村上さんがスケートの芸術性に魅せられるきっかけともなった思い入れ深い「ヴァイオリン・ミューズ」。結果、全日本選手権ではショート、フリーともにほぼパーフェクトの演技で2位に輝き、オリンピック出場権を獲得した。

夢の五輪を前に訪れた不調、己と向き合った過酷な1年
写真:アフロ

苦しくても、自分が納得できる演技を求めて

夢のオリンピックでは、独特の雰囲気にのまれ12位。一方、直前の四大陸選手権では優勝を飾れたこともあり、山田満知子コーチからは「これ以上の良い成績は多分ない。ここからの道は、今まで以上に苦しいよ」と引退を勧められた。だが村上さんは現役続行を決意。3年後をリミットにし、毎年最後と思って挑むことを自分に課したという。

大学3年の春には、アイスショーのウォームアップ中に足首を捻挫。医師からもしっかり治さないと後に引きずってしまうけがだと休養を勧められたことから、2カ月もの間、スケート靴を履けない時を過ごす。感覚が変わってしまうのが怖くて、なかなか休めない性質。とにかくスケートのことしか頭になく、後のことは何でも良いと思っていたそうだが、この頃からだんだんと自分の体に意識が向き、周囲に相談して栄養士の指導も仰ぐように。陸上トレーニングで体力補強にも努め、「自分が納得できる演技」を探し続けて手応えを得たのが、最後と決めた年の全日本選手権だった。

「フリープログラムが終わるまでは『本当に辞められるのかな』とふわふわした感覚だったんですけれど、フリーを滑った後すぐ、 『あ、終わりだ』と。その時できる力をすべて出しきれたからこそ、自然とそう思えたんだと思います」

大学卒業直後の平成29年4月23日、現役引退を発表した。

健康のために頑張ることは
毎日のモチベーションにつながる

自分を見つめ、可能性を探す

ジャンプのない芸術的プログラム「シンドラーのリスト」が絶賛されるなど、プロフィギュアスケーターとして、ますます表現力に磨きをかける村上さん。「自分の可能性を見つけたい」との思いから、故郷・愛知を舞台にしたドラマ「黄色い煉瓦〜フランク・ロイド・ライトを騙した男〜」ほかで女優業に挑んだり、荒川静香さんのプログラムを振り付けたりと幅広い挑戦を続けている。

現在は東京を拠点に名古屋でも複数レギュラー番組を持ち、月2回の収録に合わせ、実家に帰る生活。「東京は毎日刺激的でそれも好きですが、名古屋ではゆったり過ごせて、タクシーで運転手のおじさんと話すのもすごく楽しかったりと、皆がファミリーのような感覚。現役時代も、私は何より家族が心の支えでしたし、たびたび帰らないと自分が壊れてしまうんじゃないかと思うぐらい大切な場所です」と頰を緩める。

健康への好奇心が、楽しみながら挑戦する活力

引退後の夢の一つが、「自分の体や食べ物のことを、しっかり考えた生活を送ること」だった村上さんは、オーガニック食品やビーガンの考え方、現役時代は手が出せなかった漢方やサプリメント、ファスティングまで、さまざまな知識を学び生活に取り入れている。今もアトピー性皮膚炎のほか、じんましんも出ることがあるそうだが、「以前は表面にのみ意識が行っていたけれど、今は体の内側のことを考えられるようになって。内臓を奇麗にするように気をつけることで、だいぶ出にくくなりました」と話す。さらには25歳にして、人生初の人間ドックにも挑戦。「まだ早いのではとも言われたんですが、一度全部しっかり調べておきたくて。結果、大きな異常はありませんでした。次は3年後かな。婦人科系は毎年調べようと思います」とのことで、この予防医療の意識は見習いたい。

競技用プログラムの振り付け、アイスショーの演出など、今後の夢もたくさんあるという村上さん。20代の今、しっかり土台づくりをしたいと考えているそうだ。その土台には、もちろん、健やかな体が含まれる。

「健康のために頑張ることって、我慢とか、やらなきゃという意識に行きがちですけれど、私にとってはモチベーション。例えば週1でご褒美の日を設けて、その日を最高の一日にするために健康に気を使った生活を積み上げていく意識にしたり、頑張っている自分を隠さず『褒めて!』って言っちゃって、褒められることを励みにしたり。物の見方を少し変えるだけで、ネガティブもポジティブに変わる。それが、ずっとマイナス思考だった私がようやく気づけた、人生を楽しむこつですね」

村上佳菜子が
健康を楽しむ5つのポイント

  1. 大好きな家族と過ごす時間

    心置きなくスケートに打ち込めるように支え続けてくれた、両親と姉。特にオリンピックシーズンは、すべて村上さん中心に動いてくれて、感謝しかないそうだ。今も2匹の飼い犬とともに隔週で実家で過ごす時間が心の支え。

  2. 体を形作る栄養を知る

    栄養士がついた当初は、取るべき食材を教わっても、それらを全部投入したスープで朝昼晩を済ませていたことも。今では食べたものが体に及ぼす影響について学ぶことも、得た知識を生かして料理することも楽しんでいる。

  3. 頑張れる「ご褒美」をつくる

    運動や食生活もストイックになり過ぎず、思いっきり楽しむ「ご褒美の日」を設けたほうが、無理せず楽しく続けられるのだと村上さん。高校時代は、学校で友達とおしゃべりをすることが、練習のご褒美だったのだとか。

  4. 表現の奥深さを追求し続ける

    五輪出場を決めたプログラムを振り付けした平山さんに「一つ一つの動きに意味がある」と教わり、スケートの動きに込められた思いや気持ちを考えるように。心を豊かにするために、芸術としてのスケートは追求し続けたいテーマ。

  5. 挑戦が可能性を広げてくれる

    競技引退後の活動は、試合の解説や振り付け、MC、女優業など実に多彩で、この先の「やってみたい夢」も限りない。健康のための挑戦も楽しく、医師や専門家の力を借りて、「もっと自分の体を知りたい」と意欲を燃やす。

村上佳菜⼦

村上佳菜⼦

1994年生まれ。愛知県名古屋市出身。スケートを始めた姉の後を追い、3歳からスケートを始める。2014年ソチオリンピック日本代表に選ばれるなど第一線で活躍し、2017年に現役引退。現在ではプロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演するほか、テレビ番組のMCやラジオパーソナリティーなど活動の幅を広げている。

文/羽成菜穂子 写真/松本岳治
スタイリスト/柳翔吾 スタイリストアシスタント/下島一紗 ヘア/三浦彩(bloc japon)
※2020年9月に実施したインタビューです

本インタビュー記事は書籍『頼れるドクター 名古屋版、名古屋・三河版』にて掲載中!

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