山地 善紀 院長の独自取材記事
善紀クリニック
(仲多度郡多度津町/多度津駅)
最終更新日:2024/11/26

Smileの文字が踊るマスカット色のTシャツに、ZENKIの名入れがワンポイントの白いパンツスタイル。「善紀クリニック」の山地善紀院長は、肩をすくめ「スマイルがトレードマーク」とおどけて見せる。しかしその弾ける笑顔は、計り知れないほどのエネルギーと不屈の精神で、数々の困難を乗り越えてきた後に生まれたものだ。瀬戸内の小さな港の前で、整形外科診療所を営む山地院長の型破りで波乱に満ちた人生譚を聞いた。
(取材日2024年9月11日)
人生は「3C」の連続
先生の少年時代のお話から伺いたいです。

小学生の頃は畑のサツマイモを焼いて友達に売ったり、友達から集めた漫画本をリンゴ箱に並べて貸本屋を始めたりと、商魂たくましい子どもでした。農家の両親は3人の息子に弁護士か警察官か医師になるよう説いていましたが、私を医師の道へとかき立てたのは、重い病気を抱えていた親族の存在です。中学2年生の頃には、隣家の診療所の老医師から木製の診療机と回転椅子を譲られて、「君は頭がいいから、医師になりなさい」と勧められたこともあります。その家の孫とはよく一緒に遊んでいましたが、両親のいなかった彼が祖父の後を継ぐことはありませんでした。瀬戸内の夕日を眺めては、「死とはいかなるものか」と悩んだ純朴な少年は、やがて人生という名の航海へ出て「3C」の連続を経験します。Change、Choice、そしてChallenge。最初の「Change」は、「よしき」という名前の改名でした。
ご自分で改名されたのですか?
中学校の卒業式の予行演習で、先生に「よしのり」と呼び間違えられたんです。起立を拒否して注意を受けた私は、改めて自分の戸籍を調べました。すると名前に振り仮名がなかったので、高校卒業と同時に、「ぜんき」と名乗るようにしたわけです。勉強に励みつつ、家業の手伝いのため黒牛を使って田を耕し、葉タバコの乾燥作業やぶどう棚作りにも汗を流す、そんな暗い中高時代から決別するためでもありました。ところが徳島大学医学部の受験前日に、ストレス性の胃腸炎を発症。アロエで口を湿らせながら試験を終えたものの、結果は「眉山ノサクラ散ル」。その後も「信濃路、雪深シ」、「伊勢海老採レズ」の3連敗でした。浪人を決意した後は約1年間、毎日午前0時に空手着に着替えては合格の鉢巻を巻き、術棒を片手に約4kmの距離を走り、夜中の神社で空手と棒術の演武を行ってから床に就く日々を送りました。
大学時代のお話もお聞かせください。

徳島大学に無事入学し、3歳年上の兄に憧れてラグビー部にも入部しましたが、時代は第2次安保闘争の真っただ中。講義もほぼ行われず、街頭デモやラグビーの練習に明け暮れた結果、20歳で狭心症を患いました。大学病院の病棟に3週間入院しながら、何度カテーテル検査を受けたことか。主治医からも「スポーツへの復帰は不可能」と言われたことで、再び「Change」。これまでの「動」の場とはまったく異なる「静」の場、茶道部を「Choice」し、美しい女性師匠のもとで作法や禅の心を学びました。しかし、翌年には医師の忠告をはねのけてラグビー部にも復帰。さらには寝袋一つでレジャーバイクにまたがって、四国八十八箇所巡りを敢行。山陰、南紀、北九州も一人一周しました。病床からの復活は、その後数々の困難を乗り越えていく私の原点です。マグロのように泳ぎ続ける、それが私の75年の人生です。
2度の結婚と病院運営を経て
卒業後はどのような歩みを?

3月に卒業した翌月には結婚。そして「イギリスのスポーツカーに乗るため、整形外科に入局します」と恩師に公言しました。大きな目標がなければ、着実に人生を歩むことはできませんから。医局では先輩医師からの誘いを受けて、膝関節の研究に「Challenge」。放射線障害に苦しみながらも四国4県をターボ車で疾走し、当時まだ一般化していなかった、関節鏡視下手術の普及に貢献しました。28歳の時には、この分野でフルカラーの専門書も上梓しています。入局6年目の年に大学を退職すると、今度はドイツのハイデルベルクへ渡航。シンポジウムに参加する中で、日本より30年ほど進んでいたドイツの医療にふれ知見を得て、30歳で64床の総合病院を継承しました。
そこから、どうして診療所に?
病院では夜間の救急患者を随時受け入れながら、高度な人工関節手術も、リスクの高い脊髄手術も基幹病院と同等数でこなしていたのですが、継承からちょうど10年を迎える40歳の年に、離婚を経験しました。誰にも見送られず、4月1日の未明に布団一つで瀬戸大橋を渡るときは涙が止まらなかったです。心機一転、広島市の病院に入職した後は医業に邁進。韓国やインドネシアをはじめとしたアジア諸国から招かれて、膝関節外科領域の招待講演なども行いました。プライベートでは、広島で出会った28歳の女性教師と再婚。43歳で故郷へ帰り、1991年に当院を開業しました。
医院の特徴を教えてください。

一番の特徴は、診察室に置かれた患者さん用の椅子です。普通なら医師が座るような、黒い革張りの椅子を患者さん用にしています。これは医療経営士で経営学修士の妻の発案です。「こんな椅子があれば、患者さんもあなたが謙虚な医師だと感じて、信頼関係を築きやすくなるのではないか」と。毎日多くの方々が来られますが、患者さんのお悩みとしては膝痛が多く、あとは腰痛、肩凝りなどが中心です。香川県であれば高松市や小豆島、愛媛県であれば四国中央市や宇和島市、さらには海をまたいだ岡山県、山口県からおみえになる人もいます。対する医師は、私を含めて7人。愛知医科大学、香川大学、徳島大学、徳島赤十字病院、広島県の開業医の先生も非常勤で診療し、専門性の高い医療を提供しています。
MRIも2台、導入されていますね。
第1・第2MRI室は当院の心臓部ですが、MRI自体は、補助診断装置に過ぎません。実際は問診と触診だけで、99%くらいの診断はつけられるというのが私の考えです。MRI検査の画像を印刷してお渡しすれば、患者さんも信じて納得することができる。1日で診断を完結させて、患者さんの負担軽減につなげることができる。検査のために、3回、4回と病院に通わなくても済むわけです。「人のために生活し、己のために生活せざるを医業の本髄とす」。医療は、慈善事業ですから。
人生とは、美しく死ぬもの
診療理念についてお聞かせください。

江戸時代の蘭学者・緒方洪庵は、ドイツの内科学者・フーフェランドが著した医学の手引書を約20年かけて和訳し、医師の戒めとなる12ヵ条の言葉を導き出しました。先ほどの言葉は、その第1条となります。私が大学を卒業するときには、大阪大学出身の医学部長が12ヵ条すべての写しを卒業生に配っていたんです。当院もこれを原点にしようと、12ヵ条の中から挙げた5つの「医戒」を診療理念に掲げています。「挨拶は礼儀なり、清潔なくして医療なし、医は学術なり、医はコミュニケーションなり、 医療のプロフェッショナルになれ」。どれもいい言葉です。
医療だけでなく、農業にも従事されています。
初めは1500坪、今では4000坪まで農園を拡大し、マンゴーやミカン、ブドウ、ビワなどを一人で栽培しています。多度津町の第1農園が1000坪、東かがわ市の第2農園が3000坪。早朝から草刈りなどをして、診療後には水やりをする「半医半農」スタイルです。私は人を驚かせるのが大好きなので、来年には幻のフルーツと呼ばれる果実も育てようとしています。医療人であり、小作人であり、そして10年ほど前までは、現役のラガーマンでもありました。一人のプレーヤーとしてスパイクを履き、40歳以上のクラブでトライを決めながら、2001年に立ち上げたラグビースクールではちびっ子ラガーたちを指導。今はそれも引退しましたが、ラグビーは私に人間としての幅、余裕、そして生きていく上での活力を与えてくれました。
最後に、読者へのお言葉をください。

地域の医療レベル向上のため人を育てながら、これからも皆さんと信頼関係を築き、お互いの心が通い合う医療を提供していきたい。ただ、それだけです。人生とは、美しく死ぬものだと思っています。私は美しく死ぬための手段を模索する中で、油絵を描くようになりました。これまでに描いた作品は300点ほど。人の思想や魂が、絵という形で残り続けるのは美しいことだと思います。かつて幻と夢見た恋人、イギリス生まれのラグジュアリースポーツカーに乗って、初老画伯はこの波乱万丈の人生をまだまだ走り続けます。