松原 卓也 理事長の独自取材記事
勝連病院
(糸満市)
最終更新日:2021/10/12

平和祈念公園より5分ほど車を走らせた場所にある「勝連病院」は、主に高齢者を対象とした精神科医療を提供し、510床の病床を持つ。病棟からは海を見渡すことができ、訪れる者の心を解きほぐしてくれそうだ。2013年に理事長に就任したのが、松原卓也先生。ジーンズ姿で颯爽と取材現場に現れた松原先生は、実に気さくな人物である。同院の特徴から、ライフワークとしている依存症の治療、趣味のサーフィンについてまで、余すところなく語ってもらった。
(取材日2020年6月11日)
精神科と内科の双方からアプローチ
まずは、こちらの病院の成り立ちについてお聞かせいただけますか?

初代理事長の勝連昭夫先生が、高齢者医療を実践したいと1978年に創立したのが当院です。中でも、勝連先生の専門は精神科だったため、高齢者を対象とした精神科医療、現在でいう認知症医療を長年手がけてきました。今でもその流れは変わらず、終末期医療なども含めた高齢者の精神科医療を行っています。当院の最大の特徴は、精神的分野と身体的分野、両方の側面から診療している点。患者さんはご高齢なので、身体的なご病気をお持ちの方が多く、認知症の精神症状と内科疾患などを同時に診ることが必要です。当院には精神科医師と内科医師が半分ずつ在籍しておりますので、患者さんお一人に対して、精神科医師と内科医師の2人が主治医として担当し、双方からアプローチしています。
初診では、ソーシャルワーカーさんにご相談することもできるそうですね。
外来でおみえになる方、入院目的でお越しになる方など、それぞれの患者さんに対して、当院の医療が適しているかを判断・調整する「医療福祉相談室」を設けておりますので、初診の方は、まずそこでソーシャルワーカーにご相談いただきます。私自身は、週1回外来を担当しており、うつ病や認知症といった一般的な精神科の病気の方を診療しています。また、ライフワークとして依存症治療に長年取り組んでおり、アルコール依存症の患者さんもよく診ていますね。依存症というのは、ご本人の意思がなければ治療が進みませんし、治療にはたいへん時間がかかります。誰しもがなり得ますし、治る・治らないという基準で捉えるものではなく、長く付き合って背負っていくものなんですね。時間をかけて患者さんと人間関係を構築していき、患者さんと一緒に歩んでいくこと、患者さんが背負うものの一部を持って支えることが依存症治療だと、私は考えています。
依存について、もう少し詳しく教えてください。

人間というのは両親からしっかりした愛情を受けて心の芯をつくれると思うんです。ところが、それがなかったり欠けていたり、自分がそうと理解しなかったり、原因はさまざまだと思いますが、愛情が不足していると、欠けた部分を何かで補わなければいけない。それが依存です。ギャンブル、お酒、買い物……、なんでも依存の対象になり得ます。例えば、仕事ばかりしている人も、世間からは立派と思われるかもしれないけれど、仕事に依存しているともいえるかもしれません。一方、アルコールへの依存だと、周囲からはダメな人間だと思われて、ご本人も自分が劣っているイメージを持ってしまい、肩身が狭い思いをなさっている。でも、なりたくてなったわけではないし、心の隙間をアルコールで埋めて何とか立っているのです。ですから、依存とは人間性を否定するようなものでは決してありません。
なるほど。そして、依存症の診療には時間が必要なのだそうですね。
診療では、今お話ししたようなことを患者さんにしっかり伝えています。家族間、特に両親からのコミュニケーションの欠如が根底にあると思うので、それを補うのは親以外には難しいと思うけれども、5年10年と長い年月をかけて人間としてのコミュニケーションを構築していくことが、治療には大切なことだと考えています。
「急がば回れ」で全職員が働きやすい環境づくりに尽力
理事長就任以来、院内の「働き方改革」を実践されてきたと伺いました。長く勤めている方も多いそうですね。

精神科医療では医師やスタッフの心の安定が大切ですから、職員のワークライフバランスの充実を図り、皆が安心して働ける環境づくりを心がけてきました。それは、結果的に患者さんとそのご家族のためになると考えています。私が理事長を継承させていただいたきっかけは、初代理事長の勝連先生のご親族に後継者がいなかったことが1つ、それともう1つは、当時は経営的にも内容的にもあまりうまくいっていなかったのを、手前味噌ですが私が中心となって立て直したこと。でも、そんなすごいことはやっていないんですよ。私の信条は「良いことも悪いことも、ゆっくり進める」。みんな、良いことは早く進めたいなって思うでしょう? でも、良いこともゆっくりやったほうがいい。なぜなら、良いことも意外とストレスになるから。だから、いっぺんに階段を昇り詰めるようなことはしないで、目の前の本当に小さいことから変えていきました。
どのように変えていったのですか?
まず、処方箋のシステムが非効率だったので、そのシステムを変えました。そうすると、皆が注目しますよね。そしてまた次に小さなことを変える。それで、徐々にスタッフもまとまっていって。入職したばかりの私が大きなことを言ったって、誰もついてきませんから。本当に小さい共有部分から改善していき、10年くらいかけて現在の形にしていきました。まさに、「急がば回れ」ですね。今では、スタッフたちが自主的にどんどん工夫して、スムーズに仕事できる環境をつくってくれていますよ。
病院の取り組みとして、他院との連携についてはいかがですか?

「精神科リエゾン」として豊見城中央病院と連携し、当院の医師を派遣しています。精神科の診療科を持っていない場合、治療を専門的に行うというのはなかなか難しいため、われわれが少しだけサポートさせていただいています。他方、当院の患者さんで合併症のある方は豊見城中央病院で診ていただくなど、お互いにメリットとなるような関係を築いています。もちろん、近隣のクリニックとの連携も大切にしています。
沖縄はかねての憧れの地。白衣を脱いで、今日も波乗り
ところで、先生はもともと精神科がご専門だったのですか?

1987年に杏林大学を卒業した後は、同大学病院の救命救急センターに勤めており、その後も東京都内の病院の外科や内科などで診療していました。でも、どうも私には合わなくて。そんな時、たまたま、友人がいる福島の精神科専門病院に行くことになり関わってみたら、ものすごく面白かった。私にとっては精神科が一番興味深いですね。
プライベートについてもお聞かせください。先生はどんな子どもだったのでしょう?
出身は東京都の多摩地区で、自然に囲まれた場所でした。だから、小さい時から野を駆け回って、虫やら魚やら、いろいろなものを取りに行ってましたね。そういえば、私の父は90代で東京で暮らしているのですが、先日会った時に、「卓也は小学校低学年の頃、学校も行かずに一人で通学路にある竹やぶで走り回っていたなあ」とうれしそうに話してくれましたよ。型破りな子どもだったんでしょうね。
日々お忙しいと思いますが、何かご趣味などはお持ちですか?

サーフィンが趣味で、波が良ければ週2~3回しています。今朝も乗ってきました(笑)。正直に言うと、実は当院に入職したのも、沖縄で有名なサーフポイントの近くだったから(笑)。ダイビングも17歳の頃からしていて、沖縄には何度も訪れていました。だから沖縄にはなじみがあり、同時に、憧れの地でもあった。当院に来たのも、きっとご縁があったのでしょう。
最後になりますが、読者へ向けてメッセージをお願いします。
私が当院で診療するようになって思ったのは、沖縄の方々は根がおおらかといいますか、素直な方が多いので、精神症状も比較的やわらかいということ。こちらのことを素直に受け入れてくださる方が多いですね。心の病って、日本ではなかなか受け入れられにくい部分が多々ありましたが、最近はだいぶ変わってきて、昔よりも早期の受診が進み、重症化するケースが減ってきました。薬も進歩していますし、医療として発展している分野だと思います。心の病は誰でもかかり得るものですし、まったく恥ずかしいことではありません。心の病気になることは、いわば「人間の当然の権利」のようなもの。どうぞ気軽に受診してくださいね。