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継 仁 院長の独自取材記事

継医院

(杉並区/新高円寺駅)

最終更新日:2024/11/13

継仁院長 継医院 main

新高円寺駅そばに位置する「継医院」は、昭和初期から3代続く、地域に愛される小児科だ。1996年に継承した3代目の継仁院長は、患者一人ひとりの話をよく聞くことを重視し、長くこの地域に総合診療を提供してきた。豊富な知識と経験で、子どもの体調不良に不安を感じる保護者の相談にも気さくに応じている。継院長に医院の歴史や印象に残る出来事、今後の展望についてインタビューした。

(取材日2024年10月2日)

地域に信頼される歴史ある医院

3代続く医院だそうですね。その歴史を教えてください。

継仁院長 継医院1

祖父が東京のこの地で始めたのが1930年で、今年で94年目になります。この辺りでは一番古い診療所です。1948年に父が継ぎました。父は一度経済学部に進みましたが、戦争に行かなくて済むようにと、親から無理やりやめさせられて医学部に入り直したようです。そんな時代だったのですね。僕自身父の闘病を機に1996年から診療を手伝うようになりました。当時は留学から帰ってきたばかりで、日本でも研究を続けようと思っていた矢先。亡くなった後には継承するか、閉じて大学に戻ろうかと悩みました。継いだのは大学内の事情や相続税の関係もありますが、母からの「続けてほしい」という言葉に背中を押されたのが一番の動機でした。

実家が小児科という環境の中で、先生自身も医師を志したのはなぜですか?

父からは医師になれとは言われませんでしたが、祖母からは後を継ぐようにと言われて育ってきました。学生時代、進路についてはすごく悩みましたね。読書少年で、愛読していた小説家の影響で「自分の天職はなんだろう」とずっと思い悩んでいました。結局高校時代には答えを見つけることはできませんでした。ですが「人を救うことができれば、生きている意味がある」と思い、医学部の道を選びました。

現在はどんな患者さんがいらしていますか?

継仁院長 継医院2

そもそもは小児科でしたが、先代の頃から通っていただいている患者さんがそのまま年を重ね、今では80代の方まで来ています。年齢層は子どもと大人が半々くらいの割合です。私はずっと杉並区に住んできたので、小さい頃の自分をよく知る八百屋やコロッケ屋のおじさんが患者さんとして来ることもあるんです。むずがゆくもうれしい気持ちですね(笑)。自分はこの町に育てられてきたんだなと、実感します。

患者の思いをくみ取り、不安を払拭

アメリカ留学ではどんなことを学ばれたのですか?

継仁院長 継医院3

1992年~1994年に米国のオクラホマ医療研究財団で研究をしていました。分子生物学といって、DNAの配列を調べ、病気の原因となる遺伝子の異常を見つける研究です。その当時は最先端のことをやっているという感覚がありました。また、外に出ることで日本の良さも良くない部分もわかります。医療の面でいえば、日本は専門性が優れている一方、全体の知識を持っている人が少ない。アメリカは全体主義で、全体の知識を身につけてから専門を絞るので、その専門の先生も全体の知識を持っています。日本は部分的にはアメリカよりも優れていると思うが、アメリカは底上げして全体に医療レベルを保っていると感じました。

開業当初の苦労はありましたか?

開業したての頃、子どもを受診させたいお母さんは近くの内科の女性医師を選んでいて、どうしてうちに来ないのだろうと思っていましたが、今思うと、女性医師のほうが子どもを心配する親の気持ちに共感できたからではないかと考えています。僕は今まで大学病院で重症な患者を多く見てきたけれど、お母さんたちが何に困っているのか、何が不安なのかを当時はきっとわかっていなかったと思います。今ではそんな保護者の気持ちをなるべくくみ取るように心がけています。自分にも子どもができて、子どもの夜泣きで眠れないときの親の気持ち等を体感する中で、診療での向き合い方も変わっていきましたね。

小さい子どもが体調を崩すと、保護者はどうしても不安になりますよね。

継仁院長 継医院4

知識がないと不安になりますから、わからないことはぜひ聞いてほしいです。例えば咳は体の中の悪いものを出そうとしているし、鼻水も鼻を洗い流しています。薬で止めたから早く治るというわけではありません。でも子どもが一晩中鼻詰まりで泣いていたら、親も子も疲れてしまいますね。困って来院した保護者の気持ちもくんで、話をしながら不安を除くことに時間を割いています。また、その中でも川崎病など重症な疾患を見逃さないということも意識しています。保護者によく説明するのは「食う、寝る、遊ぶ」ができていれば大丈夫だということ。遊ぼうとする元気があれば大丈夫、すやすや眠れていれば大丈夫、しっかり食べていれば大丈夫と伝えれば、保護者にも理解してもらいやすいです。ただ、この「大丈夫」という言葉だけでは理解してもらえている感じがしないと思うので、「なぜ大丈夫なのか」を伝えるための勉強にも励んでいますね。

医師になって特に印象に残っている出来事はありますか?

以前診察した20代の男性のことが印象に残っています。大学病院であらゆる病気を診てきたつもりでしたが、原因がわからずに別の病院を紹介したのです。後でわかったその方の病名は劇症型溶血性レンサ球菌感染症で、翌日に亡くなってしまいました。その時に強く感じたのは「自分の知らない病気は診断できない」ということです。そこからいろいろな勉強会やセミナーに行くようになりました。そのうち逆に講師を頼まれることもあり、若い先生に講義をすることもあります。人に伝えるにはその100倍努力する必要があるので、いくつになっても自分の能力を維持させ続ける原動力にもなっていますね。やはり当時の患者さんのことが忘れられず、「もう病気を見落とすまい」という気持ちから、毎日欠かさず本を読み、医療の問題集を解くことも、私のルーティンになっています。

めざすのは小児の総合診療

診療の際に意識していることは何でしょうか?

継仁院長 継医院5

話をよく聞くことですね。話の中でその人の健康状態のバックグラウンドを知ることもできます。また、研修医だった頃、部長から「自分で診られなかったら、次どこに行けばいいかまで探してあげなさい」と教わりました。その教えを忘れず、自分が診られなくても最後まで面倒を見る、見放さないということをポリシーとしています。また、患者さんに1つお土産話を持って帰ってもらうことも、私の裏テーマです。受診に来る機会が少しでも楽しくプラスになるように、患者さんが「いいこと聞いちゃった」と思えるような雑学を日々収集したり、他の患者さんから聞いたりしては、披露をしています(笑)。

医院での診療の傍ら、杉並区医師会の活動も熱心に取り組んでいらっしゃいますね。

ここ3~4年は新型コロナウイルス感染症の対応で大変でしたね。毎週会議で、ワクチンをどうするか、発熱患者を診る外来をどうするか、という打ち合わせをやっていました。この地域から一人も死亡者を出すまいと思い必死でした。毎晩のように医師会会館とを行き来しています。ここを休診にして近隣病院の発熱症状を診る外来を手伝ったりと行政と協力して、発熱の外来やワクチン接種、自宅療養者の支援体制作りに奔走していました。

医院での診療にとどまらず、院外でもさまざまに活躍されています。

継仁院長 継医院6

木曜の休診日を利用して八丈島の町立八丈病院に通っています。2019年に小児科医が倒れてからお手伝いをしていて、現在は月に2回、日帰りで診療に行っています。また、小児の在宅医療も対応しています。毎月3、4人を訪問し、重症の脳性まひのお子さんの胃ろうや気管カニューレの交換などしています。小児の在宅医療を行っている医師は少なくないので、自分の強みの一つにしていきたいです。若手の頃、「誰か診てくれない?」と声をかけられると一番に手を上げる先輩医師がいました。その先輩を見習って、誰もやらないなら一番に手を挙げる。近所の方に休診が多いと言われるのは心苦しく思いますが、どちらもやっていきたいと思います。

経験豊富な先生ですが、今後やりたいことはありますか?

国は総合的な診断能力を持つ医師を求めて各大学に総合診療科をつくっていますが、僕も自分に求めるのは「小児の総合医」です。自分の診療は話をしっかり聞くため時間がかかります。重症の人を見つけることも大切ですが、診断がつかなくて困っている方にもゆっくり話を聞いてあげたい。それが総合診療の醍醐味だと思っています。今63歳ですが、自分の能力を落とさずにいい医療が提供できるように日々自己研鑽に努めたいです。

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