田島 和雄 院長の独自取材記事
美杉クリニック
(津市/伊勢鎌倉駅)
最終更新日:2021/10/12

三重県津市美杉町下之川。四方を山に囲まれた自然豊かな地に「美杉クリニック」はある。同院は、医療過疎が進む下之川地区において、健康的な暮らしをサポートするかかりつけクリニックの役割を担い、老人福祉施設や住民交流施設とともに、医療・介護・福祉の拠点として尽力している。2016年の開業当初から院長を務めるのは田島和雄先生。田島院長は、愛知県がんセンターを中心に、国内外の疫学研究をけん引してきたスペシャリストで、現在もキャリアの中で得た知見やネットワークを生かしながら、地域住民の健康増進をめざし、活動を続けているという。「地域医療は私の夢でした」と語る田島院長に、医師としてのこれまでの歩みや、地域医療への思いについて聞いた。
(取材日2020年2月7日)
高齢化が進む地域で健康増進や予防医療に注力
まず、地域の特性や患者の年齢層について教えてください。

当院のある下之川地区は、2006年の市町村合併前は一志郡美杉村という村の1地区でした。集落は四方を山に囲まれた盆地にあり、とても自然豊かで落ち着いた町です。その反面、都市部に出るには車やバスを使って山道を抜ける必要があり、他の山村と同様に、若者や子どもは減り、高齢化が著しい地域でもあります。そのため、当院に来られる患者さんも高齢の方がほとんどで、また、高齢の方が多いということは、当然亡くなる方も多くなりますし、介護の不安などからお子さんがいる地域へ引っ越す方も出てきます。当院が開業した2016年時点で、下之川地区には約430人の方が暮らしていましたが、驚くことに、そこから4年弱の間に、50人ほどの方が亡くなり、人口で言えば100人ほど減ってしまったという状況です。
こちらのクリニックが設立された経緯はどのようなものですか?
かつては、この地区にも下之川診療所というクリニックがあったのですが、そちらは既に閉院していますし、新しく開業したクリニックも皆数年で撤退してしまうなど、しばらく地域内に医師がいない状況が続いていたのです。そんな時、津市のバックアップで当地区に老人福祉施設と住民交流施設を開設する計画が持ち上がり、当法人もその計画に協力させていただくことになりました。ただ、医師不在に困っている地域でしたので、折角ならクリニックも一緒につくろうということになり、当法人の高茶屋クリニックに勤務していた私に声がかかったという経緯です。私は下之川地区から8キロほど離れた松阪市の古民家に住んでいますので、やりがいもあり、場所も近いということで、喜んで引き受けさせていただきました。
開院から4年ほどが経過しますが、どのようなクリニックをめざしてきましたか?

地域の健康増進に貢献できるようなクリニックですね。医療というと、どうしても「病気を治す」というイメージがありますが、当院のような高齢化が進む地域のクリニックは、それに加えて高齢者が自立した生活を少しでも長く続けられるように支援することが重要です。そのため、当院では日常的な健康管理を行うための検査機器を整備するとともに、健康教室や講演会を頻回に開催するなど、予防活動にもかなり力を入れています。また、施設面では、病気ではない方を含め、誰もが気軽に通えるクリニックをめざしており、院内は美杉町の特産品である杉や檜をふんだんに使った、明るく温かみのある空間になっていますし、地域の皆さんが集う場所として、トレーニングマシンやリハビリテーションマシンを設置した大部屋も設置しています。
地域医療を追い求めた先で疫学研究に出会う
先生はもともと地域医療志向をお持ちだったのでしょうか。

そうですね。生まれ育ったのが広島市の里山だったこともあり、昔から都会よりは田舎のほうが性に合っていると思っていました。また、子どもの頃は病弱で、よく地域の医師に診てもらいましたので、医師を志した時には「地域医療に携わりたい」という思いを持っていましたね。実際、大阪大学医学部に進学した後は、サークル活動として農山村医療研究会や東南アジア医学研究会に所属し、沖縄の離島やボルネオなどで地域医療とハンセン病の社会差別の問題に取り組んだこともありますし、大学卒業後も、地域医療に役立つだろうと1年間整形外科を学びました。そしてその後は、浜松市郊外にある聖隷三方原病院に移り、外科医師として、救急医療から手術、内視鏡検査、麻酔に至るまで、地域医療を行うための基礎を幅広く学びました。
田島先生は、特に疫学研究の分野で知られていますが、研究の道を歩み始めたのはなぜですか?
聖隷三方原病院で、当時の愛知県がんセンター故赤崎兼義初代研究所長に出会ったことがきっかけです。その先生は、病理診断を行うために、毎月のように聖隷三方原病院に来られていたのですが、新人だった私は先生の診療記録補助をしており、少しずつ病理学の魅力に取りつかれていったのです。そして、外科研修が終わる頃には「病理学を学びたい」という思いが強くなり、先生にお願いをして、2年間の期限つきで、愛知県がんセンターに勤務し、病理学を学ばせていただくことになりました。もちろんその時は、2年間学んだ後は、本格的に地域医療に取り組むつもりでした。しかし、2年目の研修が終わる頃、当時の同研究所富永祐民疫学部長から、疫学部の研究員に誘われたのです。結局そこから定年退職まで、疫学研究に没頭してしまいましたね。
疫学研究を始めてから退職されるまでの間に、どのような研究を行ってこられましたか?

代表的なものとしては2つあります。1つは愛知県がんセンターという病院を背景にした大規模ながんの病院疫学研究です。これは、すべての来院患者に対し、生活習慣に関する調査を行い、がんの発症や進行との関係を調べる研究で、2013年に定年退職するまでの25年間に約13万人分のデータベースを残すことができました。そして2つ目はATL(成人T細胞白血病)に関する疫学研究。こちらは、ATLの発生因子や感染経路を調べる研究で、最初は長崎県の五島列島から対馬に始まり、その後東南アジアや中国での調査を経て、最終的には中南米諸国や極北地域に至るまで大規模な国際研究にまで発展しました。ただし、定年までずっと研究だけを行えたかというとそうでもなく、ある程度キャリアを積んだ後は、研究所長といった管理的な仕事や、研究費に関する文部科学省の仕事、国際的な研究機関や学会の立ち上げなど、研究以外の仕事が中心になりましたね。
培った経験を生かし地域を健康にしたい
こちらの法人に赴任されたきっかけについても伺います。

愛知県がんセンターを退職後は、三重大学の当時の学長に病院長顧問、客員教授として迎えていただき、勤務することになりました。その当時の三重大学病院の病院長から高茶屋クリニックを紹介され、当法人の山田俊郎理事長のお世話になることになりました。研究の道に進むときもそうですが、今こうして念願だった地域医療に携われているのも、すべて偶然の出会いの積み重ねです。本当に私は運が良いと思いますね。
今後のビジョンについてお聞かせください。
私は地域医療を志していた矢先にがん研究の世界に身を置いてきましたが、疫学研究の経験は予防医療を行う上でとても役立っていますし、キャリアの中で育んだ全国的な人脈やネットワークによって、病気の方を適切な医療機関につなぐこともできます。今後も、こうした自分の経験を生かしながら、もっと地域を健康に元気にしていきたいですね。また、皆さんの健康を支えるには、私自身が元気であることが一番大切です。今でも4日勤務のうち2日は、家からクリニックまで、8キロの山道を歩いて通っていますし、趣味である詩吟もずっと続けています。これからも、高齢者の一人として、皆さんの範となれるような生き様を実践していきたいと思います。
最後に、読者へのメッセージをお願いします。

私から皆さんにお伝えしたいことは、医師は病気に対し治療を行いますが、多くの場合それは自己治癒力のお手伝いに過ぎません。いくら医師が治療を行っても、治癒力や免疫力を低下させている生活習慣を改善しなければ、根本的な解決にはならないのです。皆さんには、ぜひとも適切な生活習慣を身につけて健康増進に努めていただければと思います。さらに、体調が悪くなった時はできるだけ早くかかりつけの医師に相談し、がんを含む生活習慣病などの診断・治療が手遅れにならないように対応していただきたいのです。