水谷 雅信 院長の独自取材記事
水谷心療内科
(多治見市/多治見駅)
最終更新日:2024/12/04
多治見インターチェンジから南へ車で3分ほど、広い駐車場のある敷地に「水谷心療内科」はある。水谷雅信院長は名古屋市出身で、複数の病院に勤務後、縁あってこの地に開業。心療内科と精神科を標榜し、悩みやストレスなど心の問題により体に症状が現れる心身症や、統合失調症、うつ病、パニック障害など精神科疾患の診療にあたっている。下町育ちで幼い頃より社会における弱者のことが心にあったという水谷院長は、尊敬する師との出会いを経て今に至る軌跡を振り返り、「この仕事は天職だと思っています」と優しい笑顔。これまでの幅広い経験をもとに、患者や家族の「納得」が得られるような丁寧な治療、支援を日々心がけている。
(取材日2024年11月14日)
災害精神医療や離島での多彩な経験を今に生かす
開業されて17年だそうですね。
はい。当時、岐阜県立多治見病院から精神科がなくなるという事態があり、この地域に精神科が必要ということで、ご縁があってお声がかかり、開業した次第です。当初は緊急を要する患者さん、重症な患者さんもすべて受け入れていましたので、診察室には折り畳み式の簡易ベッドがあり、待合室にも横になれるように長椅子が置いてあります。開業時、待合室を広くするのを一番優先にして、さらに診察室は3室つくったので、私やスタッフの部屋は狭くなりました(笑)。診察室では、できるだけ声が待合室に漏れないように気をつけています。
先生のご経歴をお聞かせください。
私は大学在学中から、研究より臨床の場に関心があり、臨床能力に秀でた先生に教えを請いたいと考えていました。卒業前に全国の複数の病院を見学した中で、神戸大学医学部精神科の中井久夫先生の丁寧な診療姿勢に心を打たれ、卒業後は念願かなって同院に勤務。その翌年1月に阪神・淡路大震災が起こりました。医師総出で重体の方から診療が始まり、2週間後ぐらいから精神科の診療が超多忙になりました。強い不安や恐怖心を抱える方のほか「頑張らなければ」という異常な高揚感が続いて心の変調を来たした方もおられました。私たち研修医は4月初めまで病院に泊まり込みで雑魚寝の状態。中井先生はそんな私たちが休息を取れるように気配りしてくださり、避難所となった学校の校長先生のケアもされたりと、あの状況下で見過ごされがちな人たちにまで気を配っておられました。中井先生は2022年に亡くなられましたが、私は開業後もご指導をいただいていました。
その後、石垣島にある沖縄県立八重山病院にも勤務されたのですね。
中井先生の弟子で私の師匠である先生が、臨床経験を深めたいなら離島だと勧めてくださったのです。石垣島をはじめとする八重山諸島の当時の人口は5万人強。精神科の医師は3人でした。その3人で救急も当直も、また診療以外にもさまざま経験しました。飛行機で南の島に来て、躁状態で空港で走り回っている方を滑走路まで走って追いかけたこともありましたし、ソーシャルワーカーがいなかったので自分で福祉を勉強して患者さんの障害者手帳や生活保護の申請の手助けをしたりもしました。急な往診に行ったことは数えきれません。さらに他科の先生はもちろん、危険がある場合は警察や、お子さんの場合は学校、児童相談所、または行政などと連携して仕事をしていました。石垣島の離島である波照間島への巡回診療、患者家族会の立ち上げへの関わり、断酒会にも患者さんと一緒に参加するなど、多忙でした。この時の幅広い経験も、現在の診療に役立っています。
患者や家族の「納得」の得られる治療、支援を
とても貴重な経験を積んでこられたのですね。
石垣島で指導してくださった先生が、精神科の臨床では病院の中に留まるだけではダメだと言い、往診や離島の巡回診療、保健師や福祉事務所の職員との会議、患者家族会や断酒会などとの交流など、病院外での臨床の実践の見本を見せていただき、私もそれを経験できたので、多忙でしたが有意義な日々でした。心の問題に関することならば、子どもでも老人でも言葉が通じない外国人でもすべて断ることができない離島の環境は、診療を引き受ける覚悟が決まるし、こちら日本の都市部ではありがちな、患者の押しつけ合いもなく、他科の先生とも仲良く連携してできたので、良い思い出がたくさんあります。
現在この医院ではどのような患者さんが多いですか?
お子さんから90代の方まで来られていますが、多いのは20代~70代でしょうか。精神科の疾患は、高血圧症や糖尿病など生活習慣病を併発することも多いのですが、開業前には阪神・淡路大震災や石垣島、総合病院などで内科などを含めた総合診療もしてきたので、今でも軽症な生活習慣病やアレルギー疾患、慢性疼痛、内分泌疾患などの病気の診療もしています。県立多治見病院の研修など連携医療機関でもあるので、連携して診療することも多いです。
先生は優しい雰囲気があります。スタッフさんもそのような方々がそろわれたのでしょうか?
スタッフは私以上に優しいですよ(笑)。看護師、事務職、臨床心理士がいますが、皆、常に笑顔で優しく患者さんに接しています。初診のほか治療中も、看護師が患者さんのお話を伺う機会を設けており、お話の中から患者さんやご家族の本当のニーズをくみ取ってくれるので、カンファレンスで共有しています。私たちが最も心がけているのは、患者さんやご家族の「納得」を得られる治療や支援を行うことです。例えば診療で薬を減らしたいと言われたら、その希望が危険な選択でない限り、正しい情報を伝えた上で、患者さんの気持ちを尊重した方向で進めます。最近では治療の選択肢を示して患者さんに治療法を選んでもらうのが常識とされていますが、その選択は専門知識のない患者さんには難しいこともありますので、そのような場合はこちらから勧めることもあります。病気だけでなく、患者さんの人生や生活を考えた「納得診療」を大切にしています。
社会的な弱者に関わっていく仕事が天職
先生は背がお高いですが、何かスポーツをされていたのですか?
高校では柔道、大学では野球をしていましたが、もともと「水」が好きで、スキューバダイビングやウインドサーフィンをしていた時期もありました。小型船舶操縦免許も取得しています。自宅では金魚を飼っていて、釣りも好きですね。診察では、患者さんに好きなことについて話してもらうこともありますが、釣りが好きな患者さんには良いスポットをたくさん教えてもらっています(笑)。雑談で話す内容によって、患者さんの状態や回復傾向にあるのか否かが見て取れることもよくあるんです。そんな話で診療時間が長くなって他の方をお待たせしてしまうこともあるのですが、中井先生のように、一人ひとりに丁寧に向き合っていきたいと思っています。
先生が精神科を専門にされた理由はどんなことですか?
私が生まれ育ったのは名古屋駅に近い下町でした。1970年代中頃、名古屋駅前に高層ビルがあり、オフィスや飲食店街、映画館などもたくさんあってにぎわっていましたが、そこからほんの1キロ離れただけの線路沿いにはトタン板を乗せただけのバラック小屋が並んでいました。私の家も裕福ではありませんでしたが、もっと貧しい子や、今思えば病気で薬の副作用なのでしょうが、フラフラ歩いている人もいました。社会の格差や矛盾を肌身で感じて育ちました。大学時代は、ちょうどバブル景気できらびやかな青春を謳歌している学生もいたのですが、私はそれにはなじめず、文化人類学、社会学や心理学などの本を読んで、社会構造と心の問題に考えを巡らせていました。そして社会から取り残されているような、弱い立場の人たちに関わる仕事をしたいと考えるようになりました。
あらためてこれまでを振り返り、今後についてのお考えをお聞かせください。
思えば、中井先生に惹かれたのも、常に弱い立場の人々を思いやっていた中井先生の姿に深く共感したからかもしれません。そう考えると、私が精神科の医師になったのは、天職に思えるのです。年を重ねてその思いは強くなりました。当院の強みは、治療に時間のかかる子どもさん、他院で治療が難しいと言われた方、身体的な症状があるけどどこにかかっていいかわからない方など、多様な方々を受け入れていることです。患者さんの中には、夫婦で、親子で、またおじいちゃんおばあちゃんから3代にわたって、と家族で通われている方も少なくありません。そうした信頼をいただけていると思うと励みになり、期待を裏切らないように、勉強を続けて常に自分をアップデートさせて、真摯に診療を続けていきたいと思います。