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平元 周 院長の独自取材記事

横浜総合病院

(横浜市青葉区/あざみ野駅)

最終更新日:2019/08/28

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緑あふれる青葉区の高台に位置する「医療法人社団緑成会 横浜総合病院」は、1988年に開院して以来、青葉区内有数の中核病院として地域住民の健康を守り続けてきた。一般の外来診療のほか、循環器科、脳神経科、消化器科については外科分野、内科分野の垣根を越えたセンター構成での専門性の高いチーム医療を提供している。脳神経センター長も務める平元 周院長は、自身の生い立ちから、何よりも地域医療を一番に考え、地域の人に信頼され愛される病院作りに余念がない。また、脳神経外科医として脳死を扱う機会が多いことから、医師として常に、患者そして家族が納得して死を受け入れることのできる医療をめざし、その人らしい最期を迎えるためのターミナルケアにも力を入れている。ユーモアがありお話し上手な平元院長に、地域医療のあり方や、ご自身の医療に対する考えのほか、医師をめざしたきっかけや学生時代の思い出話などたっぷりと語っていただいた。
(取材日2014年5月21日)

一般的な症状から専門治療まで地域医療を担う総合病院

はじめに病院の歴史についてお話しください。

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当院の前身は1976年にすすき野で100床規模の病院として開業した横浜北中央病院です。その後1988年に現在の場所に移転、ベッド数を300床に増やし、横浜総合病院と改称し、地域の中核病院として地域医療を担ってきました。私は1989年9月から勤務しております。私は、北海道の利尻島の出身で子供の頃無医村の時期も経験しましたので、地域医療への貢献が私の1番の原点でした。当時、当院には脳神経外科がなかったため、自分の専門分野の領域だけでも最高の医療をやろうという思いで勤務し、現在まで至っております。現在、当院を受診される患者さんは青葉区在住の方が6割ほどいらっしゃるほか都筑区、川崎市麻生区、宮前区の方が多く、入院患者の8割が60歳以上の方となっています。地域の先生との連携を密にとり、原則として開業医の先生からの受け入れ100%をめざすとともに、高度な専門技術を要する治療に関しては、近隣の大学病院をはじめとした専門機関をご紹介することで、一般的な治療を当たり前に受けられる体制を整えています。

病院の理念である「心技一如」にはどういった気持ちが込められていますか?

例えば、病気だから休養しなさい、休まなければだめですよと言っても、必死になって働かないと生活ができない人は休めないわけですよね。目の前の症状だけの治療ではなく、患者さんのバックグラウンドまで考えられる、医療を行っていきたいと私は常に思っています。

病院の特徴であるハートセンターとはどのような機関ですか?

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ハートセンターは循環器科と心臓血管外科で構成され、最適な循環器疾患の治療を行っています。基本的にはまず循環器内科で治療し、外科的な処置が必要であれば、よりスムーズに外科と一緒に治療を行うことが可能です。

医療に絶対はない。だからこそ納得のいく死を迎えるための看取りの医療を

日々の診療における患者とのコミュニケーションで心がけていることはありますか?

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私の外来の患者さんが多いときは診療まで3時間待ちということもあり、皆さんイライラされていますから、いつもお待たせして申し訳ないという気持ちは毎回伝えるようにしています。

脳神経外科医としてこれまで臓器移植にも関わってこられたのですよね。

脳死になられた患者さんのご家族の意思を尊重し、当院では1992年から、脳死された患者さんの腎臓提供を行ってきました。臓器の提供が少ないと言われていますが、実際には、自分がもしも助からない状態になったら、誰かのために臓器を提供したいという思いを持つ患者さんはたくさんいらっしゃいます。しかし、その気持ちが健康なうちに家族や周囲の人間に伝えられていないことが多いと感じています。私が心がけているのは、きちんと病状を説明し納得していただくということ。例えば、患者さんが重症の状態で病院に運ばれ、もう助からないというお話しをすると、おそらくご家族は最初の段階では、そんなはずはない、頑張れるはずだと思い、やがて、この病院に運ばれたのが悪かったのではないか、この医師が担当だから助からないのではないかと考えてしまうと思います。しかし、きちんと説明をすることで納得のいく治療を行い、最後は個々の死を受け入れられるように導くという中で、臓器移植の話をしてきました。臓器提供についてはおそらく全国でも有数の症例数であると自負しています。そのような医療を行っていると、亡くなる間際にはそれぞれにドラマがあり、家族の思いが交差しますが、それを色々な形で受け止めた上で、提供していただいた臓器によって、本来ならば助からないと思った人が助かったことなどは心に残っています。

そのような状況の中で、先生が大切にされていることは何ですか?

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医療には不確実性と限界があり、絶対はありません。ですから、私は患者さんに、最後にどうするかは自分で決めなさいと言っています。癌の告知をしてほしいか、してほしくないか、臓器提供を希望するかしないか、延命治療は行うのか、それを周囲の人に伝えておきなさいと。これから高齢化社会がどんどん進んでいく中、自分本位ではない生き方で生かされることが幸せかどうかを家族にしっかりと伝えておくべきです。家族にそれが伝わっていないと、いざというときには人工呼吸器などを装着せざるを得ません。だけど、延命治療を希望しないという明確な意思が伝わっていれば、個室で家族に囲まれながら自然な状態で最期を迎えるということができます。ご本人が自分らしいと思える最期が迎えられるように、当院ではきちんとした看取りの医療をしていきたいですし、これまでもターミナルケアの段階に入れば個室でご家族に付き添っていただくようにしてきました。治療をして元気になられるのが大原則ですが、どうしても難しい場合、最後は納得されて亡くなっていけるようにすることが1番大切だと感じています。機械につなぎ効率よく管理をすれば病院の経営としてはよいのかもしれませんが、患者さんは物ではありませんから。特に脳外科で脳死を扱うようになってからは、より強くこのような思いを持つようになりました。

地域の開業医との協力のもと、困ったときにいつでも力になれる病院に

ところで、先生が医師を志したきっかけは何だったのでしょうか?

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北海道利尻島の無医村に育ち、友人が骨肉腫で亡くなったことや、自身の病気の体験などもありますが、やはり、家がお寺で両親が地域に貢献する姿を見て、世の中に還元できるような人間になりたいと思ったことが一番のきっかけです。弘前大学医学部に入学後、僻地医療をやりたいと思っていた私は、僻地の先生はどのようなことを考えているか会ってみたいと思いました。そこで、大学1年目の3月にリュックサック一つで九州へ向かいました。終着駅に降り立ち、そばにあった派出所で僻地の診療所がないかと尋ねたところ、当時、弘前大学の爆弾闘争が世間を騒がせていたため、私のリュックの中にも爆弾が入っているのではないかと疑われてしまって。結局、リュックの中身を見せ疑いも無事に晴れて、診療所を紹介していただきました。奄美大島、徳之島の診療所を見せていただき、寝泊りもお世話になりました。その後、地域に役立つ何でもできる医師でありたいという気持ちが強く、大学六年生のときには、このまま自分が医師になっていいのだろうかと悩み、一旦休学をしました。というのは、医師は資格をとった瞬間から「先生」と呼ばれますが、社会の厳しさや人に使われる大変さを知らずに「先生」と呼ばれてよいのだろうかと考えたのです。以前、難病団体で自身も難病に苦しみながらほかの難病の患者のために働く人たちと出会いに感銘を受けたことから、休学中はそこでお手伝いをしていたのですが、そこで患者さんが望んでいるのはそういうことを考えている学生ではなく、そういう考えを持った医師だということに気づきました。そこで、医師になるべく、3か月後には学校に戻り、複数の医局に頭を下げて同時進行で実習をさせていただきました。

では、先生が脳神経外科を選ばれたのはどうしてだったのですか?

私が大学に入ったときに、地元の町から奨学金を出すから医師になって戻ってきてくれと言われました。私はそのつもりで、当時から研修体制が整っていた聖路加国際病院で研修を受けることにしました。当時の第一希望は外科で、第二希望は小児科だったのですが、面接で、僻地医療や障害児医療の話をしているうちに、ある先生から「君、うちの科に来なさい」と声がかかりました。それが脳外科だったんです。当時は脳外科医にはならないつもりでいたのですが、脳外科の先生に、「君、世の中思うようにはならないよ。3年間、違うことをやってみると、どう変わるかわからないよ」と言われて。その後、北品川病院で7年学び、内科も外科も全部できるようにしたいと思っていたのですが、その頃に、地元の道立病院がなくなってしまって。それで、こちらに残り、脳外科を専門にすることに決めました。脳外科医になってわかったのは、一家の大黒柱が倒れたら家族全員が大変なことになる、子どもが脳腫瘍になったら、生活ががらりと変わってしまうということ。救命に関わる部分が大きい脳外科は、私にとって一番合っている科だなと思いましたし、医師になってからこの職業について疑問に思ったことはありません。

最後に、今後の病院の展望と読者へのメッセージをお願いします。

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これまで脳外科医として救急医療の現場でやってきた中、やはり困ったときにいつでも診てあげられる病院であることが一番大切だと思っています。高齢化社会の中、必要なことは、まずは、脳卒中や心筋梗塞の原因となる糖尿病、高血圧、高脂血症に対する適正な治療と指導です。また脳卒中や認知症は生活習慣病の管理と大きく関係があります。これについては開業医の先生とのタイアップで、地域に役立つ診療をしていきたいです。また、日本人の三大死因である、がん、脳卒中、心臓病についてはしっかりと予防をし、早期発見につなげる。患者さん自身にまずは検査をしていただくように働きかけていきたいですね。ずっとやりたいと思っている僻地医療については、最後にチャンスがあればぜひやってみたいと思ってはいますが、地元の病院がなくなり、今の北海道の僻地はさらにひどい状態で非常に胸が痛みます。ですから、少なくとも今自分がいるこの地域はしっかりと診療していきたいです。困ったときに力になることができ、かつ専門性を追求しながら地域貢献をしていきたいですね。地域の人から愛され信頼される病院を作れるように努力していきたいと考えています。

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