ドクターズファイル特集
スペシャルインタビュー間 寛平

(公開日2018年4月13日)

今年で芸歴48年。数え切れない苦楽を経てお笑い界のトップに立つ間寛平さんは
「僕、ものすごいツイテるんですよ」と言ってのける。
寛平さんの半生、どう見ても波乱含みですが?

KANPEI HAZAMA

1949年7月20日生まれ。高知県宿毛市出身。日本を代表するお笑い芸人の一人。1970年のデビューから苦労を重ねながら、吉本新喜劇のスターとして関西で絶大な人気を得る。「アヘアヘ、アヘアヘ」や「ア〜メマ!」など独特なギャグが有名。「カンペイちゃん」の愛称で親しまれる。趣味のマラソンでは自己ベスト3時間8分42 秒(1998年)という市民ランナーとしては驚異的な記録も持つ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京所属。

“「もうあの世へ行ってしまう!」
と思ったけど病院の対応が早くて助かった”

木から落ちて大ケガ 救急車で搬送される


毎日走ることはかかさないという。
数々の過酷なレースにチャレンジできるのは日々の努力の賜物だ。

名人が失敗することを「猿も木から落ちる」と言うが、この人はリアルに木から落っこちた。しかも、67歳という年齢で。
「座ってた木の枝がボキッと折れて、『これはあかん。もうあの世へ行ってしまう!』と思ったら、地面にダーンと落ちて、視界がスーッとしぼんでいってん」
心底、怖い思いをしたと言いつつ、どこか愉快そうに話すお笑い芸人の間寛平さんは、昨年4月、SNSの動画配信番組で兵庫県宝塚市某所の樹木に登り、自撮り中継中に落下。4〜5メートルの高さからもろに地面にたたきつけられ、全治1カ月の重傷を負った。被害は肋骨9本に左鎖骨を骨折する大ケガ。折れた肋骨は肺に突き刺さり、かなり危ない状態だったという。
「ほんまに痛くて、痛くて、うなったまま動けなかった。うちが近かったんで嫁はんに電話しても出えへんし。いつもなら絶対に出るのに、何でやろうって思ったら、僕が馬券買いに行かせてた!それに気づいて、『あかん、救急車呼んでくれー』って」
夫人の光代さんは、芸歴48年の寛平さんをずっとそばで支えてきた世話女房だ。マネジャーからの電話で急いで現場に駆けつけた夫人は寛平さんに付き添い、救急車で市内の病院へと向かった。
しかし、そこでは肺に刺さった肋骨の処置ができず、呼吸器外科のある病院を探すことに。その結果、大阪市にある病院が浮上し、宝塚市から救急車を飛ばして40〜50分かかる同院へと急いだ。
大阪市内のその病院は高度先端医療を提供する病院で、二次救急病院にも指定されている。その上、寛平さんの受診歴があったこともあり、救急車の受け入れはスムーズだったそうだ。
「日曜でしたけど、たまたま呼吸器外科の先生がいて、『このままじゃ、心筋梗塞を起こします。すぐに手術が必要です』となって、約1日かけて肺から血を抜いたんです。いつも『血、吸うたろうか〜』言うてるのに、自分が血、吸われてしまった(笑)。ほんま、しんどかったけど、病院は前立腺がんの治療でお世話になっていて診察券も持っていたんで、対応が早くて助かりました」

地球一周に挑戦中前立腺がんが発覚

寛平さんは平成22年1月、海外で仕事中に前立腺がんが発覚した。
ご記憶の方も多いだろうが、当時、マラソンとヨットで地球を一周する「アースマラソン」というビッグプロジェクトの真っ最中で、ある時は灼熱の砂漠を、ある時は気温マイナス20度の寒冷地を一歩ずつ、毎日50〜60㎞に及ぶ距離を走破。またある時は荒波の大海原をマネジャーと2人きりで航海するという過酷な日々に身を置いていた。
自分ががんだとわかった時、寛平さんはどんな心境だったのだろう?
「まだ症状がなかったんで、何のことだかよくわからなかった。でも、日本から駆けつけた嫁はんもスタッフもみんなあわててるから、『そんなにひどいことなんや』って、こっちもあわててしまって。その時、嫁はんに『あんた、一度日本に帰って手術して、治ったらまたスタートすればええやんか』って言われましたけど、僕はゴールするまで絶対に日本に帰らないと決めていたので、『絶対、帰らへん。死んでもええ』って話したんです」
今、中断すれば、スポンサー企業やテレビ局、所属事務所の吉本興業など大勢の人に迷惑がかかる。しかも、一大決心して始めた自分の夢を途中で投げ出すわけにはいかなかった。
だが、そんな寛平さんのプロ魂とは裏腹に、前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSA(前立腺特異抗原)値は日に日に上昇。トルコの病院で受けた2週間の精密検査では度重なる採血で貧血になり、「病院のロビーで倒れるほどフラフラだった」と寛平さんは言う。
それでも検査を終えるとすぐマラソンに戻り、トルコからイランを抜けトルクメニスタンへと入って、約1000㎞の砂漠をヨレヨレになりながら走り切った。しかし、さすがの寛平さんもそこで万事休す。病状が急激に悪化し、ついにアースマラソン中断を余儀なくされたのだった。

“嫁はんはすごい。がんになっても
「大丈夫やわー、あんた」って普段
通りだった”

運良く巡り会えたドクターと妻の支えに感謝

寛平さんはトルクメニスタンから米国へ渡り、サンフランシスコの病院で放射線治療と手術を受けた。なぜ、日本でなく米国だったのか?
「僕らのヨットを修理していたマネジャーが、見知らぬおっちゃんに『サンフランシスコに日本人で前立腺がん治療で有名な医師がいるから、すぐに行け』と言われて、その一言がきっかけでいい先生に巡り会えたんです。僕、ほんまにツイテるんですよ」
その医師とは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校がんセンターの篠原克人先生。同校の教授であり前立腺がん治療ではその名を知られるドクターだった。
篠原先生のもとで放射線治療を25回程度、さらに、約14時間に及ぶ手術を受けた寛平さんは、これが生まれて初めての手術だったこともあり、さすがに気が滅入ったという。だがそんな時、そばで勇気づけてくれたのは、やはり気丈な妻だった。
「病気は治るのか、アースマラソンは続けられるのか、ひょっとしたら死ぬんかな、とか思うわけですよ。でも、嫁はんはすごいわ。『大丈夫やわ、あんたは強いし、ツイテるもーん』って、全然落ち込まない。ずっと普段どおりで、だいぶ助かった」
がんとの闘病では、患者はもとより、家族もつらい思いをする。寛平さんの前では明るく振る舞っていた光代夫人とて、心労は並大抵ではなかったはずだ。
若い頃にはずいぶん「やんちゃ」もしたという寛平さん。家族のことはずっと大切にしてきたが、改めてそのありがたさに感謝したそうだ。
手術に成功した寛平さんは結局、入院から約2カ月でアースマラソンに復帰。年明けの平成23年1月21日、地元大阪で無事ゴールした。費やした歳月は2年1カ月。走破した総距離は陸海合わせて実に4万1000㎞。がんと闘いながら前代未聞の偉業を成し遂げた。

“かかりつけ医に
しょっちゅう相談に乗ってもらう”

家族代々診てもらっている30年来の
かかりつけ医

がん手術から今春で8年になる寛平さんはその後も転移は見られず、すっかり元気だ。お笑いの仕事の傍ら、得意のフルマラソンの他にギリシャの鉄人レースと呼ばれるスパルタスロン(総距離246㎞)や、灼熱のサハラ砂漠を14㎏もの荷物を背負って走るサハラマラソン(総距離245㎞)を完走するなど超人的な挑戦を続ける。
寛平さんを駆り立てる原動力は何なのか?そもそもマラソンを始めたきっけかけは?
「ある時、元オリンピック選手の瀬古利彦さんとデッドヒートしてる夢を見たんですよ。しかも、同じ夢を2回。これはいっぺん走ってみようかなと思って、次の日からタバコやめて、毎日5㎞ぐらい走り始めたんです。ほんなら会社(吉本興業)が『青梅マラソン(30㎞)に出て、3時間切ったらギャラ倍にしてやる』って言うんで、『そうですかー』って走ったら2時間24分で走ってしまって。さらに今度は『ホノルルマラソン行ってこい。4時間切ったら、またギャラ倍にしてやる』って言うんで、『いいすよー』って走ったら3時間13分で完走してしまった!」
フルマラソン初挑戦にして、いきなりサブ4(4時間以内に完走)を達成した寛平さんは当時36歳。秘めたる才能を一気に開花させた。この頃から、地元大阪にかかりつけの内科医がいて、かれこれ30年以上、寛平さんの挑戦を医療の面から支えてもらっているという。
「大先生は昔からうちの嫁や嫁の家族を診てくれてて、そのご縁で僕もお世話になったんです。最近、90歳くらいで亡くなってしまって、今は代替わりした息子さんに診てもらってます」
マラソン大会前は必ず血液検査や心電図検査などを受けて万全を期すという寛平さん。「他にも何かといえば、しょっちゅう相談に乗ってもらう頼もしいかかりつけ医ですよ」と太鼓判を押す。

”水のごとく
「流れに逆らったらあかん」”

日々の健康管理も人生も自然の流れに逆らわない

本人曰く、「病気やケガで何度も死にかけた」と言う寛平さんは、これまでの人生をしみじみと振り返りながら、こんな話もしてくれた。
「不思議でしゃあないけど、木から落ちた時、何かクッションがあった感じがするんですよ。あれ、何か見えない救いの手が助けてくれたんちゃうかなって」
その「見えない救いの手」は、平成24年の夏から東日本大震災の復興支援として始めた「RUN FORWARD KANPEI みちのくマラソン」に関係するという。 福島県、宮城県、岩手県といった被災地を毎年、地元の人たちと一緒に走るたび、津波被害で亡くなった人たちの無念の気持ちや、悲しみを乗り越え立ち上がろうとする遺された者の強さを肌で感じてきた寛平さん。「そういう人らが助けてくれたんちゃうかな。じゃなければ、首やら腰やらの骨を折って、もっとひどいことになっていたはず」と思うのだそうだ。
そんな寛平さん、今ある健康にさぞや感謝し、健康管理に気を使っているのかと思いきや、好きな物を食べ、大好きなお酒を好きなだけ飲み、週の半分くらいは1日に10㎞ほどを走る日々だそうだ。
「水は上から下へ流れる。そういう自然の流れに逆らったらあかん。逆らってもしんどいだけやん。だから絶対、逆らわない」
なるほど、これぞ寛平流。軽やかな生き様の根幹にふれたような気がした。

間 寛平の心身の強さを支えたもの

ライフワークのマラソン

食事や睡眠など、日常生活で特に課していることはないと言うが、30代中盤から続けている走る習慣は、健康な体づくりに貢献しているといえるだろう。今後の夢は「3年後、71歳になる年にギリシャのスパルタスロンに再挑戦すること」。

医師を全面的に頼る

「先生をすごい方だと思うてるから」と言う寛平さんは、基本的に主治医を頼る。「先生、助けて〜」「先生、痛い〜」などの弱音も遠慮なく吐き、自ら医師とコミュニケーションを図る。そうすると「先生、一生懸命になってくれはる」とのこと。

困難をも笑いに変える

職業柄とはいえ、がん闘病や瀕死の大ケガさえも笑いに変えてしまう。前立腺がんの触診の際も、「何人の先生にお尻に指入れられたか。そのたび『アヘアヘ、アヘアヘ』言うて」と自慢のギャグを披露したそう。

妻の献身的な健康管理

どちらかといえば食が細いが、光代夫人の作る和朝食は必ず食べている。以前、「自分の体は自分でわかってるから、いらん」と言ったら、「あんたのためを思って一生懸命作ってんねんで」と夫人。その言葉が身に染みたそうだ。

自分は「ツイてる」と口にする

インタビュー中、何度も「僕はツイてる」と言う寛平さんは、大病や大ケガも不幸中の幸いだったと捉え、助けてくれた医師や家族、仕事仲間、ファンに対する感謝を口にする。このポジティブ思考も健康の秘訣なのだろう。

一流の話術に脱帽。
笑いの裏にあるプロ意識がタフな体とチャレンジ精神の源

『頼れるドクター』の取材で、これほど笑ったインタビューがあっただろうか。廃校になった東京都内の小学校をオフィス利用する吉本興業東京本部。元教室だった打ち合わせルームに現れた間寛平さんは、インタビューが始まる前から「木から落ちた話、聞きたいやろ?」と昨年4月の仰天エピソードを話したくてうずうずしている様子だ。「ぜひ」と水を向けるやいなや、本来は大惨事のはずの出来事を面白おかしく語って聞かせてくれた。
インタビューは終始、愉快痛快、抱腹絶倒。プロの話術に心底驚くとともに、いくつになっても失わないチャレンジ精神と笑いに懸ける情熱の源に、数々のエピソードが物語るすさまじいプロ意識があると感じた。ニュートラルなゆるさとのギャップがたまらなく魅力的な人である。

文 : 高樹ミナ 写真 : 深澤明





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