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中條 鉄子 院長の独自取材記事

中條内科皮膚科

(寝屋川市/香里園駅)

最終更新日:2021/10/12

中條鉄子院長 中條内科皮膚科 main

京阪本線香里園駅から徒歩5分、マンション1階にある「中條内科皮膚科」は内科、皮膚科、リハビリテーション科に、子どもから高齢者まで多くの患者が訪れる地域密着のかかりつけ医だ。中條鉄子(ちゅうじょう・てつこ)院長は、自身が幼少時代に心臓病を患い、入院で多くの患者と接したことで医師の道へ進んだ。同じく医師だった妹が震災で他界した後、その意志を胸に診察にあたっているという。現在寝屋川市医師会の役員を務めるほか、診療を続けながら神職の資格も取得したという異色の経歴を持つ中條院長に、現在の診療状況や、「心も体も診る」医療について、じっくりと話してもらった。

(取材日2018年5月16日)

子どもから100歳まで来院、漢方と西洋薬の併用も

香里園で開業して約30年になるそうですね。

中條鉄子院長 中條内科皮膚科1

私は神戸市出身で、鳥取大学医学部を卒業後、微研病院(大阪大学微生物病研究所附属病院)に進みました。血液腫瘍内科で勤務していましたが、消化器内科疾患や膠原病などの自己免疫疾患など、幅広い診療を経験しました。勤務をしながら、大阪大学医学部大学院を修了後、大阪回生病院で皮膚科診療に携わる機会があり、1989年に内科と皮膚科、リハビリテーション科を標榜したこの医院を開業しました。開院してまもなく出産したので、父や母に助けてもらい、なんとか診療を続けてきました。

待合室に園児から贈られた絵や手紙がたくさんありました。

近隣にある幼稚園で昨年まで20年ほど、園医をしていました。当時の園児たちが贈ってくれたものなんです。今も小学校などの校医をしていますので、小さい子はもちろん、100歳くらいの方まで幅広い世代が来院されていて、ご家族全員で通われていることもあります。皮膚科はお子さんも多く、リハビリテーション科は肩や腰の痛みなど中高年の方が中心です。また、漢方処方を希望して来院される方もいます。漢方というと苦い、飲みにくい、本当に効くのだろうかなど懸念される方も多いのですが、患者さんの背景などを伺い、西洋薬と併用して処方しています。

女性の先生だと患者も話しやすいのでは?

中條鉄子院長 中條内科皮膚科2

私とおしゃべりをしたい、話を聞いてほしいと来られる方もいます。「先生の顔を見たらほっとする」と言ってくださるので、「こんな顔でよかったらいつでも見に来てね」と(笑)。クチコミや紹介での来院も増えてきたのですが、私が患者さんと話す時間が長くなりがちで、お待ちいただくことも多く申し訳なく感じています。なぜこういう症状が起きているのか、患者さんはもちろん、医師である私自身も理由を知りたいので、じっくりとお話を伺い、そして本や図をお見せして、患者さんに理解していただく。納得された上だと、投薬や治療にもちゃんと取り組んでくださいますからね。当院で対応できなければ、ご希望を伺って専門的な医療機関に紹介しています。

震災で他界した妹の思いを胸に診療を続ける

先生はなぜ医師の道へ進んだのでしょうか。

中條鉄子院長 中條内科皮膚科3

私自身が、先天性の心室中隔欠損症であったことが大きいです。幼稚園や小学生時代は体が弱く、何度も入院を経験。小学4年の時に手術は必要ないと診断され、ようやく普通の生活を送れるようになったんです。入院時にいろんな病気の方に出会い、自分が生かされている幸せや有難さを痛感したんです。でも実は、音楽の道も考えていました。幼少時に外で遊べず、バイオリンやピアノにのめり込んでいましたから。しかし、本格的なレッスンの話がきた際、親が断ったんです。「この子は飽き性だから毎日何時間もの練習はできません」と(笑)。美術教諭の父は芸術の厳しさを知っていたんでしょう。親族に医師がいて身近だったこともあり、医療の道へ進むことにしました。私に影響を受けたのか、7つ年下の妹も医学部に進みました。開業医として、神戸大学医学部附属病院に勤務する妹に相談をすることも多く、姉妹というより心強い同志で、親友でもありました。

妹の聖子さんは、29歳の若さで亡くなられたと伺いました。

1995年、阪神・淡路大震災がありました。神戸市に住む妹はこの日、論文執筆などで明け方に就寝したようです。激震で目が覚めた形跡がなく、熟睡したまま亡くなったようでした。妹は、大学病院の文集に「誓います。患者さんに決して背を向けません。挨拶することを忘れません」と書いていました。私たち医師は、患者さんに向き合うことで多くのことを学ばせてもらっています。罹患期間、症状の変化、治癒や寛解までの状態など、いろいろな症例からフィードバックします。焦らなくてもいいですよ、必ず良くなりますよという言葉は、学んだ経験から言えるものなんです。私はその妹の意志を胸に、診療を続けています。当院が電子カルテを採用しないのもそのためです。電子カルテにすると、患者さんのほうを向く時間が少なくなりますからね。

その後、先生は本を出版し、神職の資格を取られたそうですね。

中條鉄子院長 中條内科皮膚科4

妹は医療の合間に童話やエッセイを書き続けていました。震災後、その物語を絵本にして出版しました。この絵本は、英語併記版もあり、海外にも流通しているんですよ。そして、その出版社からお話をいただき、震災から20年たった際に私が「聖子:夢は終わらない」という本を出版しました。また、父は、心臓病を患っていた私を思い、美術教諭をしながら神職の資格を得ていて、妹のため、そして震災で被害に遭われた多くの方々の無念の思いを憂い、神社の宮司となりました。私の本の出版前に父は亡くなりましたが、父の思いを受け、私自身も大阪国学院へ進みました。在学中も診療を続けていましたので、勉強はもちろん、スクーリングや神社での神務実習への参加が本当に大変でしたが、神職の資格をいただくことができました。

「心も体も診る」医療と神職を両立させ患者を救いたい

患者さんと接する際に、心がけていることはありますか。

中條鉄子院長 中條内科皮膚科5

患者さん一人ひとり、家族がいて、大事な人がいることを忘れず、自分の家族や友人だと思って診察しています。大学卒業後に、初めて担当した患者さんがが亡くなられた後、ご家族に毎年お花を贈っていました。本当に多くのことを学ばせてもらい、私の医師のルーツであることを忘れないよう、感謝の気持ちからでした。30年間お花をお送りしていて、今もおはがきなどのやりとりも続けています。私はたまたま医療の勉強をさせてもらう機会があって、医師という職業についていますが、私にわからないことはたくさんあって、多くの方々に助けてもらって生きている。これは医師になってからずっと忘れずに抱いている気持ちです。

患者さんとじっくり話し、説明することを大切にされています。

私は「心も体も診る」のが医療だと考えています。別々のものではないので、じっくりと話を伺い、ちゃんと説明することを大切にしています。最近、院外処方にしましたが、開業以来ずっと、初めてのお薬を渡す際には、私が診察室から受付まで出て、お一人ずつ薬の説明をしていたほどです。いろんな病院で診察を受けて、それでも納得できないことがあって来院される方もいます。診察時間が延び、患者さんの待ち時間も長くなりがちなのですが、待合室や処置室で知らない方同士が仲良くなり、診察が終わるのを待ってお茶をしに行ったり、友達になったりする方もいます。医院が皆さんの交流の場となっているのはうれしく感じています。

今後、どういう診療をしていきたいですか。

中條鉄子院長 中條内科皮膚科6

私に診てほしい、教えてほしい、と来院する方がいる限りは、診療を続けることができればありがたいですね。今の医学ではどうしても治療方法がない方、難しい方がいます。その方が最期まで、一日一日を大切に生きていただけるよう、助けになることができればと。一度でも私が携わった患者さんを、なんとか救いたい、助けたいという気持ちをずっと抱いています。また、今後どういう形で神職に携わっていけるかまだわかりませんが、医療と神職を両立させていければと思います。医療の力だけでは、病気で苦しまれている方皆さんを救えるわけではありません。ただ、目に見えない力で救われる方もいるはずです。そういう方々に寄り添い、力になりたいと思っています。

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