うちのパークサイドクリニック

内野正文 院長

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JR京浜東北線、洋光台駅から歩いて約6分。マンションの1階に「うちのパークサイドクリニック」はある。洋光台の地で開業して8年。間接照明に柔らかく照らされた待合室はホテルのロビーのようにくつろげる。待合室と診察室は別ゾーンとして区切り、会話漏れをなくしプライバシーを保護。壁に掛けられたアートが訪れた患者の目を楽しませている。「専門性を持ったかかりつけ医として、患者さんの幅広いご要望にお応えしています。些細なことでも気軽にご相談ください」と微笑む院長の内野正文先生。20年以上にわたり救急医療現場で人命救助に携わった実績を持つドクターだ。そんな内野先生の心のこもった対応と高度な技術を求めて、近隣のみならず遠方から足を運ぶ患者も多数いるという。インタビューでは、開院までの経緯や勤務医時代の思い出、日々の診療で心がけていることまでじっくりと語っていただいた。
(取材日2015年7月17日)

20年以上にわたる脳神経外科医としての専門性を生かした治療

―先生の生い立ちと、医師を目指されたきっかけをお聞かせください。

僕は、3歳から10歳まで自然豊かな千葉の船橋で育ちました。カエルを捕まえたり、コオロギやバッタを追いかけて野山を駆け回るのが好きな元気な子どもでした。その頃は乗り物が好きだったので、電車の運転手やパイロットに憧れていて、航空大学校の入学資格を調べたこともあります。でも、必須条件である視力が足りなかったので結局諦めてしまいました。他にも、地理が大好きだった事もあり、地理の先生になりたいと考えた時期もありました。医師になる事をはっきりと意識したのは高校生の時です。そのきっかけになったのは小説で、渡辺淳一や北杜夫、ロピンクックなど医師から転身した作家の作品を読み、漠然とした憧れを抱きました。両親の勧めもあり、医学部を目指すことになったのですが、当時の自分の選択は向う見ずだったなと振り返ることもあります。一浪後、諦めず挑戦し東邦大学医学部に入学できました。

―大学時代の思い出をお聞かせください。

入学してからは、ダイナミックな救急医療に興味が湧きました。脳に興味があり、精神科も学びたかったのですが、生と死の間をさまよう人を救えるのは救急医療を学んだ外科医だと考え、最終的に脳外科医の道を選びました。脳外科医はきつく、厳しい上に 専門医の試験の中でも一番難しいのは脳外科だよといわれながらも選んでしまいました。今、振り返ると困難な道をわざわざ選択して歩んで来たような気もしますね(笑)。東邦大卒業後は、東邦大付属病院、済生会横浜市南部病院、などで勤務医として20年以上働きました。

―勤務医時代から開業を目指されていたのですか。

実は勤務医時代は、開業なんて全く考えてなかったです。ずっと救急医療中心に勤務医として働くつもりでした。でも、ひょんな事から地元の洋光台駅周辺の都市開発に伴いクリニック開院のお誘いがあったのです。50歳を過ぎると視力や体力なども衰えます。残念ですがいつまでも脳外科医として手術を続けることは難しく、将来的なことも視野に入れてメスを置きました。開業したのは48歳の時になります。



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