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茆原博志 院長の独自取材記事

ちはら小児クリニック

(横浜市緑区/十日市場駅)

最終更新日:2021/10/12

茆原博志院長 ちはら小児クリニック main

緑区霧が丘、環状4号線沿いの「ちはら小児クリニック」を訪ねた。淡いピンクを基調とした広々とした院内。かわいらしいマスコットやおもちゃがところどころに置かれ、子ども達が好みそうな楽しげな雰囲気に満ちている。やさしく穏やかに話す院長の茆原博志先生は、ところどころに冗談を織り込むユーモアの持ち主。28年間聖マリアンナ医科大の小児科医として、小児白血病、小児がんの治療に取り組んできた経験を生かし、現在は地域の子ども達の健康をサポートしている。「今一番うれしいのは子ども達の手紙です。もらった手紙は全部大事にとっておくんですよ」と嬉しそうに手紙を見せてくれた大学病院時代とはまた違う小さな喜びを積み重ねながら、日々患者さんと向き合っている茆原先生。これまでの経験や、子ども達の治療にかける思いを伺った。

(取材日2010年12月9日)

白血病の子どもたちを見て小児科医の道へ。「この子たちを治せる医者になりたい」

ご出身はどちらですか?

茆原博志院長 ちはら小児クリニック1


鹿児島です。桜島のある大隈半島の先っぽにある、大根占(おおねじめ)という半農半漁の町で育ちました。今は錦江町と名前も変わりましたが、当時の大根占はで人口1万人ほどの小さな、のどかな町でした。子供時代の僕は、どちらかというと恥ずかしがりで目立つのが苦手なタイプ。今は違うけどね(笑)。だけど体を動かすのは好きだったから、野球をしたり相撲をとったり、仲間とよく遊んでいました。運動神経はいつもみんなよりよかったかな。父親は大根占で内科小児科の医院を開いていました。朝から晩まで働き、夜中でもスクーターに乗って往診に出かけていく姿を見て、子供ながらにすごいな、真似できないなと思っていましたね。田舎ですし、休日診療所などありません。夜、病院を閉めていても患者さんがトントントンって戸をたたくわけ。夜間の急患がなにしろ多かったなあ。言葉ではなく、一生懸命に仕事に打ち込むその姿で多くのことを教えてくれた父でした。85歳まで鹿児島で現役として医者を続け人生を全うしました。ずいぶん頑張りましたよね。

医師という仕事を志したのはお父様の影響だったのですか?


いや、じつは僕は医師を志す前に、一度東京大学の理系の学部に入っているんです。時代はちょうど学園闘争のさなか。僕は別にリーダーではなかったけれどクラス委員長をしていたこともあり、ばたばたといろんなことが起こって、結局2年生のときに大学をやめるんです。今でも覚えていますが、学校をやめたその日、井の頭公園でボートに乗りながら友達と今後のことについてあれこれと話しをしましてね、その時、もう一度受験をやり直して大学に入り、医者になろうと決めました。もともとチャンスがあれば医師になりたいという気持ちは持っていましたから。父の仕事を見て育ったことも影響しているでしょうね。東京を離れ広島に移り住み6年間、広島大学で学びました。

小児科を専攻しようと思われたきっかけは?

茆原博志院長 ちはら小児クリニック2


卒業後小児科を専攻しようと思ったのは、すでに僕に子どもがいたということもあります。大学に入るとすぐに同級生の彼女ができて、まあ今のかみさんですが、学生結婚しました。24歳のときに一人目、卒業試験の日に二人目が生まれました。だからすでに卒業時には二児の父親だったんですね。まあでも、小児科医になった直接的な理由は別にあるんです。大学在学中に臨床実習で小児科をまわった時、指導の医師が「その部屋には入るな」というわけですよ。そこは白血病の子供たちだけを集めた病室で、2、3歳から5、6歳くらいまでのまだ小さい子どもたちがいました。とても可愛い子ばかりでしたよ。するとその子たちはもう助かる見込みがなく、いずれ亡くなるんだと聞かされ驚きました。ショックでしたね。今ではそんなことありませんが、当時白血病はほとんど治らない病気でした。その時、「ああ、この子たちを助けられるような医者になりたい」そう思ったんです。小児科を専攻し白血病の臨床をやろうと思ったのはそれが一番の理由。きっかけを作ってくれたその子たちの姿は今も目に焼きついていますね。

共にがんと闘った子どもたちや親たち。今も彼らの心の拠りどころに

卒業後、どちらの病院で経験を積まれたのですか?

茆原博志院長 ちはら小児クリニック3


広島大学卒業後、聖マリアンナ医科大学に研修医として入ります。もうすでに家族を抱えていたので、収入もないといけません。だから研修医で一番高い給料をくれるという神奈川県の病院に入る予定だったのです。ところがその面談の帰り、ついでだからという気持ちで、聖マリアンナ医科大学にも足を運んでみたんです。その時応対してくれたのが、当時小児科の教授だった水原春郎先生。あの俳句の水原秋桜子の息子さんです。その水原先生が僕に言うわけです。「悪いこと言わない。将来のことを考えるんだったら、うちの大学に来たほうが絶対いいぞ」と。聖マリアンナ大が研修医に払える給料は、入る予定だった病院の半分以下。目先のことだけ考えたらお金をもらったほうがいいに決まっています。家族にとってもね。でも結局、聖マリアンナを選びました。切り詰めればなんとか生活できると思いましたし、なにより水原先生から勧められたということが大きかった。聖マリアンナ医科大学では小児科の腫瘍学を専攻。大学には結局28年ほど在籍し、小児がんの臨床を中心に経験を積んできました。

大学小児科での長い経験のなかで、印象深いエピソードをお聞かせ下さい。


がんと闘うたくさんの子ども達を診てきましたが、医師として一番つらいことは、がんが再発した時。白血病でも、固形がんでも、最初の治療はたいていうまくいくものなんです。しかし再発というと話は別で、再発したがん細胞というのは、抗がん剤治療に耐え忍んだ細胞ですから、より強力で、抗がん剤も効きにくくなります。T子ちゃんという白血病の治療がうまくいった子がいて、退院して半年か一年経ったあと、「先生のお陰でこんなに元気になりました。ありがとうございました」と親御さんと一緒に挨拶に来てくれました。でも、奇しくもその日に血液検査で白血病細胞が見つかってしまって。再発の治療は1日でもはやく始めたほうがいいんです。だから結果を一刻も早く伝えなきゃいけないのだけど、電話しようと思ってもできない。つらくって。何時間も迷いに迷って、それでもなかなかできなくて、結局は電話しましたが非常に苦しかった思い出があります。親も一生懸命自分の子供の病気について勉強していますから、再発の意味もよく分かっている。そんななかで再発を宣告するときは大変つらいです。最初に病名を告げる時もつらいものですが、こっちとしても「必ず治すんだ」という意気込みがありますからね。親御さんも最初は泣いてしまいますが、きちんと現実を受け入れ、だんだんと「わたしたちも頑張ろう」という気持ちになってくれる。すると治療もすごくやりやすくなりますね。

先生は患者だったお子さんたちの名前を、今でもとてもよく覚えているんですね。

茆原博志院長 ちはら小児クリニック4


もちろん。100人近く診てきましたが、僕はみんな憶えていますよ。顔も名前も。亡くなっていった子たちのことも覚えています。まあ一人ひとり思い出して話したらきりがないくらい、エピソードはいくらでもあります。向こうも僕のことを憶えててくれて、治った子の何人かはここにも来てくれました。結婚式に呼ばれたこともあります。大人になっても付き合いは続いています。実は昨日も電話がかかってきたばかり。一歳の時に小児がんの神経芽細胞腫の治療をしたSちゃんの親御さんから10年ぶりの突然の電話でした。Sちゃんはもう結婚して母親になっているんだけど、二人目を妊娠中に膀胱にがんが見つかってしまったそうなんです。ショックな話でしたが、お母さんは「先生の声を聴けば少し安心するから電話したんです」と。僕もできる限りアドバイスさせてもらいました。

どんな病気も見逃さず、正しく診断して、正しく治療

開業して10年。地域の小児クリニックである現在の診療スタンスは?

茆原博志院長 ちはら小児クリニック5


とにかく正しく診断して正しく治療すること。小児科医の仕事は、お母さん達を安心させることも大事ですが、正しく診断して病気をきちんと治す、これがまず一番に来なければいけません。その上でお母さんにわかりやすく説明し、安心させてあげるのです。もう一つ気をつけていることは、どんな小さな兆候も見逃さず、病気を見つけ出すこと。その点はこれまでの経験が生きていると思います。大学の小児病棟では「早く治療していたらこんなことにならなかったのに」というケースをたくさん診てきましたし、重篤な病気がもたらすたくさんの修羅場を潜り抜けてきました。わずか1パーセントの危険性を見逃してしまうと、重大な結果を招く恐れもあるわけです。だからこそ、初期診断の場である町のクリニックの役目は非常に大事。重い病気の可能性を持った子がいたら、早く気づいてあげる。そして気づいたらだらだらと結論をひっぱらず、すばやく大きい病院に紹介する。ここで治療できる範囲と治療できない範囲をしっかりわきまえないといけません。一週間も10日も熱が続いているのに、様子を見ていると、それが後々響いてくる場合もある。これはなんの病気なのか、その可能性も含め瞬時に判断する技術が必要なのです

患者さんと接する際、心掛けていることはどんなことですか?


長いあいだ小児がんという、お子さんにとっても親御さんにとってもつらい病気を診てきたからでしょうか。できるだけ明るく、笑顔を引き出すようにして子どもたちや親御さんには接するようにしています。病院という場所だからこそあえて明るく、軽く冗談を言ったりなんかしてね。ただ時々冗談について来られないお母さんは怒っちゃったりしますけど(笑)。診察が終わった頃にはみなさんけっこう笑顔になっていますよ。不安でいっぱいのお母さんが、少しでもリラックスしてくれたらうれしいですし、それになにより、僕自身が子どもたちや親御さんの笑顔をみると安心できるんです。

休日の過ごしかたや趣味についてお聞かせ下さい。

茆原博志院長 ちはら小児クリニック6


休みの日はゴルフかな。ただ、もう昔みたいに休みのたびに行くということはなく、頻度は減りました。ゴルフはなにがおもしろいかって、上手になる過程。ですから上達した今は、もうあまりのめり込めなくなってしまいました(笑)。でもスポーツは好きですよ。子供の頃からの野球好きは今も健在で、毎年恒例のマリアンナ大、北里大、東海大、横浜市大の4大学の野球大会にはマリアンナ大のキャッチャーとして出場しています。三軒茶屋の知り合いの小児科の梅原先生とはライバル同士で、よく二人でMVPの取り合いをしていましたね。あとは、そう!今一番はまっているのは同窓会ですね。僕は鹿児島鶴丸高校の出身で、今はその同窓会幹事をやっているんです。高校時代の連中と遊ぶのは大好き。同級生はこちらにもたくさんいますから、月に一回は六本木にある「薩摩おごじょ」という薩摩料理の店に集まって、おおいに語らっておいしいお酒を飲んでいます。気のおけない仲間と過ごすそのひと時が、今は一番楽しいですね。

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